2009年5月15日金曜日

宣告を受けた日

6年前の9月に私の婚家先で法事があり、両親が出席してくれた。その数ヶ月前から、父が食事の時、食道に違和感を感じると訴えていて、だから法事のお食事はあまり食べられないよ、と聞かされていた。病院で食道や胃を検査してもらっても何も異常がないのだが、なぜ食べられないのだろう?と言う父に、精密検査したほうがいいんじゃないの?と口だけで心配する私だった。

その後、ますます食が細くなり、塊を飲み込めなくなってきて、体重が激減したこともあって緑市民病院で検査入院。悪い予感がして病院へ駆けつけると、青ざめた母の顔。

「○○ちゃん、大変なことになっちゃった」
その母の一言で、私は悟った。
「肺の癌だって、悪性だって、もうダメかもしれない。」
母は揺れる目で搾り出すように言った。

父は1ヶ月前より更に痩せ、険しい顔になっていた。
あまりに急激な体力の衰えと水分しか飲み込めなくなったことのショックで、既に死期を悟っていた。

弟と姉と母と私。
どうする?何ができる?

病院からの帰り道、秋の夕暮れは 大きすぎる夕日と、赤黒く染まった大きな雲の塊。
何も起きていなければ、美しい空だと見とれるだけだっただろう。
市民病院から鳴海駅まで歩きながら、私は色と形を刻々と変える空を眺めて、天が 父の病は治らないのだと示しているように思えて仕方がなかった。
治るかもしれない、まだ間に合うかもしれない。
がんセンターに移って最新の治療を受けることができれば、もともと頑強な父のこと、 復活して元気になってくれるかもしれない、と祈るような気持ちで空を仰ぐと、 美しすぎる空が、運命には逆らえないのだよ、と大きな力をあらわしていた。

あの時、希望を持とうと、何か良い兆しを得ようとしたが、無理だった。
私は父の死を予感し、でも、できる限りの事をしようと決意した。

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