2008年12月17日水曜日

紛失

12月17日(水)
Aが参ったな、という表情で訴える。
またお金がなくなって、おばあちゃんはAのせいにしているらしい。
「言わなくても、神様はご存知なんだよ」と窘められたという。
今回は10万円、先月は7万円、その前は3万円の紛失を孫の仕業だと思っている。
後になって変なところから封筒に入ったお金が出てきても、Kを疑ったことは忘れてしまっている。
以前は理由なく疑うようなことは決してしない人だったのだが。
なぜか嫁である私のせいにはしない。
いつもAが悪者になる。
おとなしくて性格も穏やかで、良い子なのに。
病気のせいだから仕方がないよ、と彼が言ってくれるのは救いだが、気分が良いはずはない。
トイレットペーパー、歯磨き、カバン、財布・・なくなったものはみな孫のせいになる。
印鑑も通帳も紛失の繰り返しで何度再発行したことか。
それでも自分で持ちたがる。
自分のものだから、自分で持ちたいのは当たり前だが、失くして探す労力を考えると、私たちが持って、言われたときに出してあげるのが良いと思うのだが。

Aが母を嫌いにならないようにフォローしなくては。

母と病院へ

12月15日(月)
母と病院へ。もう母1人では行けないかもしれない。途中、おかしな方角へ自転車を走らせようとするので、声をかけた。私より前を走ろうとしない。
今日は問診に1時間半もかかった。その間1対1で観察し続けるお医者さんの仕事の大変さを思う。母は問診の中でいろいろな作業が思うように出来なくてがっかりするかと思ったが、意外なほど元気。先生の対応がお上手なのだろう。
薬をきちんと飲んでいるか、毎日チェックが必要になってきた。

フォーラム21クリスマスコンサート

12月13日(土)
初めての楽屋裏仕事。
座席でゆったり聴けないのは残念だけど、舞台袖から子供たちの真剣な姿を見られた。
それにしても観客が少ない。
いろんな意味で、余裕がなくなっているのだろうか。

2008年12月16日火曜日

「豚のいる教室」

11月30日(日)
珍しく娘が見たいと誘ってくれた映画。
いろいろ考えさせられた。
教師の力量、飼育に関する知識と経験、親や子供や教師集団の信頼関係、それらが ないとしんどい授業になる。学校や子供たちを引っ掻き回すだけで終ってしまう恐れもあるだろう。

昔、同僚の女の先生は、食事会のとき尾頭付きの魚を食べなかった。
魚の目が怖いし、かわいそうだから、切り身しか食べられないの、と。
彼女は美食家で、鶏でも牛でも豚でもよく食べた。
尾頭付きの魚だけでなく、どんな肉にも命があった事は確かなのに。
彼女の感じ方に違和感を覚えたものだ。

子供たちには魚を下すところをよく見せる。
鱗が飛び散るところ、頭を出刃で叩き落すところ、3枚に下して皮を剥ぐところ。
鯛のようにある程度大きくて血液が赤い魚は、結構つらい。
最初は残酷という顔で見ている子供たちも、そうした命を食らって私たちが生きていることを
実感してくれるのだと思う。子供たちには、せめて魚を自分の力で捌けるようになってもらいたい。

しかし、自分で解体できるのは魚まで。牛や豚はともかく、鶏でも捌いたことはない。
私が小学生の頃、家で鶏を8羽ほど飼っていて、母が何度か絞めたことがあった。
その現場は、私たちに見せないようにしていた。
私たち兄弟は今まで餌を与えていた鶏の1羽が殺されて、調理されて、私たちの胃袋に入るという
事実に戦きながら、食卓を囲んだ。美味しかった。

生活の中で命を感じることが少なくなっているという。
昔はお年寄りは家で亡くなる事が多かった。
新しい命も産婆さんの支えで家で生まれた。
今ではどちらも病院内で、事が運んでしまう。
食べ物も、命を感じさせない形で小奇麗にパックされて売られる。
ホームレスの人たちを襲撃して殺めてしまう子供たちが現れ 、一方でペットを人間のように扱う人たちが増え、そのニーズに答える業種が 繁盛している。

歪を感じる。

映画館を出てから、娘は豚を解体業者に送る事を選んだ、という。
なるほど、と頷きながら、私は彼女の答えをどうとらえたらよいのか、 まだ解らないでいる。