2008年9月29日月曜日

母の病院へ

母のことを新しく主治医になったM先生に報告に行く。

必要なもの(年金手帳など)を捨ててしまう。印鑑や通帳のしまい場所を次々変えて、自分でもわからなくなり、紛失する。一緒に探すのを嫌がる。なくなったものを家族のせいにする。市役所から届いた連絡書や郵便局から届いた「おしらせ」に母を責める文が書いてあると訴える。人の悪口をいう。この1ヶ月ほど新たに目に付き始めた症状。

一方で風呂を洗ったり、私の方の台所の後片付けなど、お願いしていないのにやってくれる。 意欲はあるし外出もしているのだから、そういう状態がこれからも続くように、できることを励ましてあげて、できなくなったことに意識が向かないようにしてあげるのが良いということだ。

いろいろなことが出来なくなると、攻撃的になる人、欝で引きこもる人、いろいろタイプはあるが、進んで家事を手伝って、まだまだ私は大丈夫とアピールする人は稀だとか。やはり義母は痴呆症になっても素敵な人だ。

M先生のあとでUさんのカウンセリングを受ける。各種金融機関の母を担当する人に、新たな契約を結ぶ場合は家族に相談してほしいとお願いしたら、と教えていただく。母はまだ自分はそこまで衰えていないと思っていらっしゃるし、あぶないから私たちが管理すると言ってしまうとプライドを傷つけることになるので、この案を取らせてもらう事にする。

2008年9月27日土曜日

「グロテスク」 桐野夏生

東電OL事件を題材にした小説。
怖いもの見たさで、いつか読みたいと思っていたが、なかなか勇気が出なかった。
米原万里さんの書評を読んで、手に取る気になったのだが。

最初の数ページで後悔した。これでもか、これでもか、と悪意に満ちた文章の止まるところのない表出に辟易しながらやめることができなかった。厚い上下巻なのに結局2日で読んでしまった。そこまで私をひき付けたのはもはや「事件」に対する興味ではなかった。小説の「悪意」の中に自分のある部分を見せ付けられたからだ。他人事の悪意ではない。自分の中にある差別意識、優越感、劣等感、それらに目覚めた思春期のころからこのかた私を苦しめ、反省もさせ、それでも払拭しきれていない業のような負の感情をクローズアップして見せてくれたからだ。

心の中にあるまがまがしいものを言語化して引きずり出す、作者の力に恐れを感じる。

お子さんを私学へ入れないの?と聞かれるたびに。心の中で「無用な優越感を持つ人間になってほしくないから、エリート私学へは行かせないの」と思っていたが、私の想像以上にQ女子高内の階級社会は凄まじいのかもしれない。

名古屋の名門私学T高校へ息子さんを入れている友人の言葉が現実味を帯びて思い出される。「私はT高校に息子を入れて、勉強面でも人としての成長と言う点でも、高校が良い教育をしているなんて、これっぽちも思ったことはないよ。頭のいい生徒ばかり集めて、学校以外に塾や家庭教師をつけている子がほとんどだから偏差値の高い大学に入って当たり前だし、あそこは親も、子も、異常なエリート意識に固まったおかしなのが多いから、いろんな面でゆがんだ学校。自殺も、いじめも、新聞に載らない様々な事件も多いんだよ。」と。彼女は同居する義母の強い勧めでT高校へ息子を入れたことを後悔していた。

差別することなく、差別されることもない、そんな社会はどこにもないかもしれない。しかし、私は子供たちに、自分の中の差別意識を常に見つめ、内省できる人間に育ってほしい。

「グロテスク」は、この競争社会に生まれる様々な差別に心を支配され、熾烈な戦いに挑み、そこから抜け出すために自爆した人達の墓標のような小説だ。これほどまでに後味の悪い小説はない。が、どろどろの中に何か確かなものを掴んだような気がする。それが何か、私の拙い作文では書ききれない。

作者に敬意を表する。

2008年9月25日木曜日

「心療内科を訪ねて~心が痛み、心が治す~」夏樹静子

交通事故で腕を失った人が、存在しないはずの腕の痛みに悩むという幽霊のような症例があると聞いたことがある。そんな時は、ない腕があるのだと脳に勘違いさせて、その腕を治療したと思わせることで痛みが消えるのだそうだ。(以前読んだ「脳は奇跡を起こす」にかいてあったこと。)

脳の不思議。

体も脳も、どちらも紛れもない「自分」なのに、脳が体を裏切ったり、体が脳を苦しめる。体が感じる自分と脳が主張する自分の矛盾。
体は悪くないのに、脳が病気を作り出す。痛みを作り出す。それを治療するのが心療内科の仕事だという。

私にも覚えがある。子供のことで悩んでいた時、私は潰瘍性大腸炎に罹患した。病気の悩みは、子供のことで悩む時間を減らしてくれた。脳が無意識のうちに、私の心の悩みにフィルターをかけようとしたのかもしれない。
最近は、呼吸がし辛くて、肺に何か病気があるのではないかと心配になって呼吸器科の検査をしたが、問題なしと診断されたとたん、治ってしまった。よくよく考えてみると、PTAの人間関係で四六時中悩んでいた。

いいかげんでいいんだ、と思えるようになること、心に問題があるのだと自覚することが、心因性の病の砂漠から抜け出す鍵となるらしい。私は神経質だが、結構いい加減なところがあるので重症化しないのかもしれない。心の持ちようを自分の力でコントロールすることは難しそうだが、ポジティブに、何でも悪いところには眼を半分つむり、良い点はしっかり受け止めることが大切だとつくづく思う。

2008年9月22日月曜日

悲しい民

今度首相になる人の顔を見ていると、悲しくなる。彼の失言の数々からは思いやりに薄く、自分の立場からしか物事を見ることのできない、想像力に欠ける人のように見受けられる。顔の品格もその評価を裏切っていない。

日本は先の大戦で敗北したあと、精神的な鎖国状態にあるような気がする。鎖国と言うのは言い過ぎかもしれないが、つまりは、アメリカのみを対外的な窓口として日本の進む道を決めてもらい、自分の頭で考えることを放棄した状態。はっきり言ってしまえば、属国。諸国からしてみれば、虎の威を借る狐のような存在だから、国際会議で重きを置かれないのも、大した発信ができないのもむべなるかな。

そんな日本の、総裁選の騒ぎを見ていると、候補者たちは他にすることがないのか?他に言うべき言葉はないのか?と哀れになってくる。何がって?日本に住む人々が、日本の未来が。政策だって、忘れっぽい国民の前で、5倍に薄めたウーロン茶。外交はアメリカさんのあとを付いていくだけ、国政もアメリカさんの希望に沿いつつ官僚の用意した政策に乗るだけだから、この問題てんこ盛りの大変な時、首相になる人を決めるのに能天気なお祭り騒ぎができるのかな。

でも、結局この国に住む人々が彼らを選んでいるわけだから、悲しい。

2008年9月21日日曜日

「鋼の錬金術師」

AがTVアニメのビデオ(全13)を借りてきたおかげでこの3日間は「鋼の錬金術師」を見続けて頭が痛い。

謎が謎を呼び、混沌が深まっていくばかりだったが、最後何とか話は着地に成功。面白いから仕方がない。でも、もうこんな面白く、長いビデオは借りてこないでほしい。勉強も読書もできん。

今日はお彼岸の御萩作り。漉し餡はまあまあの出来だったが、もち米をふかすのに大失敗。少しこがしてしまったため、風味がオコゲ。家人はみな美味しいと言ってくれたが、かなり悲しい味。ゴメンね、今度は上手に作るから。「鋼の・・・」を観ながら台所に立つと、こういうことに。

2008年9月18日木曜日

「ヤンヤン 夏の想い出」

木曜だけど、鳴海の母は俳句の会に出かけて不在なので、私は一人ですることのない1日。ずっと気になっていたDVDを観た。

「ヤンヤン 夏の想い出」エドワード・ヤン監督、脚本。 男の子の可愛いアップ写真と題名に騙されたが、これは完全に大人向け映画(大人でなければ理解できないという意)。大変真面目でペーソスが効いて、親の人生と子供の人生を丁寧になぞった佳作。

172分の長さは劇場で観るには良いけど、家で一人観るには緊張が切れそうで少々辛かった。が、半分を超えて父親の人生と、子供が現在遭遇している事件が重なり合う頃から監督の意図が伝わるようになってきて、なんとも愛しく心に染みる場面場面を食い入るように見入ってしまった。

祖母が孫娘の前に元気な姿を見せて、安心させてやるが、実は祖母は死んでいたという場面。父親が妻に打ち明ける場面。ヤンヤンの、祖母へのお別れの言葉。欠点だらけで生活の波に翻弄されてばかりの人々が大好きになった。私も、そう。失敗して、言い訳して、反省して、落ち込んで、でもヤンヤン一家のように誠実に生きていけばいいんだ、と。人生捨てたモンじゃない、と思える。

イッセー尾形が思慮深い日本人の役で出てきたのは嬉しかった。悪役に日本人が使われる映画が多いので、この役回りは意外に思ったくらい。

心が疲れたときにまた観よう。

2008年9月16日火曜日

「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」  奥田英明

この2冊もKのお薦め。

面白くて一気に読んでしまう。登場人物たちのこだわりの病は決して人事でない、私の周りには可笑しな人って多いなと思う。基本的に私は相手にとことん嫌われなければ、人を嫌いにならないタイプ。変な人でも外れた人でも、私にも変人っぽいところがあると十分自覚しているせいか、いいんじゃない?と思う。むしろ変なところを楽しんでしまう癖がある。私の魅力は世間とずれた部分、なんちゃって。

心にこだわりの種を持つ患者たちが右往左往して悩みまくり、それを治療する医者が輪をかけて変人で混乱をより過激に導き、結局患者を癒して心の安定を取り戻させる物語。登場人物一人一人にたいする作者の温かいまなざしが嬉しくなる2冊。私と同様Kも人物の描き方に癒されているのではないか?作品の疾走感も心地よい。続編読みたい。

Kの教えてくれる本を心待ちにするこの頃。息子と同じ本を読んで感想を言い合える喜びを与えてくれたドーマン研究所に心から感謝している。

十五夜お月様

昨日の話

スーパーマーケットでススキを買って、(興ざめだけど、近所にないのだ)上新粉で月見団子を作った。
いえ、作ったのは娘のM。私の体調が悪いので、すべてやってくれた。私は椅子に座って指示を出すだけ。その方が彼女のためになるとよく分かった。今まで、手伝いたいと言うMに対し、私が手を出しすぎていたようだ。しめしめ。これからは体調のせいにして、楽しくお料理修行をしてもらおう。

満月を家族5人並んで見上げるのは楽しい。

2008年9月15日月曜日

学校のトイレ掃除

小学校のトイレが非常に汚いとおかあさんたちの間で問題になっている。学校の先生方は今の時代、掃除のやり方を指導する時間がないらしい。掃除したあとのチェックも時間がなくておざなりのようだ。家庭でもしっかり掃除のお手伝いをしている子は非常に数少ないだろうから、結局学校でも家庭でも、教育力が低下しているということ。

汚くて手の付けられないトイレ掃除などは、一度きれいにこびりついた汚れを取ってから、子供たちに掃除の仕方を教えて、きれいにすることの気持ちよさを教えた方がよいのではないか。単に掃除しろ!では、掃除の仕方も知らない子供には何も出来ない、ということで、今日掃除道具を持って一人でトイレ掃除をしてきた。〈もちろん先生の許可を得て。こういうことを嫌な顔一つせずやらせてくれるこの学校の管理職の先生方には感謝!)体育館の女子トイレと男子トイレ。新築1年の体育館なのに、もう便器に輪染みが出来ている。床も壁も、手洗いも、汚れっぱなし。1週間前に同じトイレで見た便器横のおしっこ染みがすっかりそのまま乾燥jして残っている。掃除をした気配はない。これでは汚れるはずである。汚物入れの中もいっぱい。掃除道具入れの雑巾も濯いだ気配なしのまっくろけ。おまけにバケツには汚水が入ったまま。

男女のトイレ全部掃除するのに2時間とちょっと要した。

教頭先生に、毎日の掃除に割り当てられた時間を尋ねてビックリした。たったの20分、教室からの移動時間を考えると15分といったところか。そりゃ、きれいにしろというのが無理だわ。

学校全体がほこりだらけ、汚れだらけで非常に汚い理由がわかった。
親も、先生方も、子供たちをどんな環境で過ごさせたいのか、どんな子供たちに育てたいのか、今一度 考えないと、子供たちがかわいそうだ。

2008年9月14日日曜日

裁判所を見学

 PTAの社会見学で、地方裁判所を訪問することになった。
なんと、実際に行われている法廷見学だった。ショック。
2つの事件を傍聴したのだが、どちらの被告も、経済的な困窮がなければ、 そして辛い境遇になければその道に入らなかったかもしれない、と感じさせる 案件だった。 参考人質問させられる母親と恋人、涙で語る言葉も途切れ途切れだった。

 罪を償ったあと、社会へ出たときに、彼らを再び絶望させない環境作りが再犯防止のために 何より必要だと思う。

裁判官が、常に穏やかに噛んで含めるような口調で被告に語りかけていたのが印象的だった。罪を憎んで人を憎まずという司法の原点を見せてもらった。

 罪を犯す人々を断罪するだけでなく、この社会を差別や不平等のない、努力する者の報われる社会へ変えていくために、私は何ができるだろう?
重い社会見学だった。

2008年9月10日水曜日

「脳を活かす勉強法」  茂木健一郎

鶴の恩返し勉強法、瞬間集中法などなど、確かにその通り。勉強が楽しくて仕方のなかった中学生の頃、茂木さんの仰る方法でがむしゃらに勉強していたことを思い出した。

デモ、高校に入って、急に勉強が味気ないものになってしまった。最初のテストで信じられないような悪い点を取って自信を喪失し、大学受験がプレッシャーになって勉強を楽しいと思えなくなってしまった〈気の弱い私〉。

負の意識を持った人にこの方法を説いても無理じゃないかな。私があの状況から抜け出すには、勉強は他との競争のためでなく、自己実現のために必要なのだ、と心の底から実感できるまで、長い時間が必要だった。勉強を楽しいと思える人は、勉強法なんて経験から知っているのよ。

2008年9月9日火曜日

「打ちのめされるようなすごい本」  米原万里

 宝の山だ。毎週日曜日の一番の楽しみは新聞読書欄から面白そうな本を探すこと。そんな私にとって盆と正月がまとめて来たような本を手に入れた。

以前から気にはなっていたが、図書館で借りる類の本ではないし、狭い我が家でここ数年本を増やすことを罪悪のように感じていたし、もはやハードカバー500ページの本すら入れるスペースのないぎゅうぎゅう詰めの書棚と相談しつつ、ようやく購入したわけ。

米原さんの興味は多方面に及び、どの分野も涎が出そうな本ばかり。老眼を迎える前に出合いたかったと愚痴っても仕方がない。かたっぱしから読むことにしよう。

それにしても、米原さんはどうして私の好きなことがわかるのだろう?なーんてね、教養の差は月とすっぽん。だけど読みたいと渇望する自分の心が嬉しい。

2008年9月8日月曜日

「幽霊人命救助隊」  高野和明著

 高2の甥っ子S君が面白い本だとKに薦めたと聞いて、今日日の高校生はどんな本を読んでいるのかいな?という興味半分で読み始めた。

 自死した4人が神の命により現世の自殺志願者たちを救う物語は、劇画のような軽さですいすい読み進められる。文庫で600ページ近くある。5分の1程度読んだ時、このまま最後までこの調子で、100人救う目標達成に向かって同じテンポで進むのか、と思うと何か芸がないような、肩透かしのような気もした。

 しかし、自殺志願者一人一人を救うため、かれらの悩みを理解しようとする主人公たちの奮闘振りを読んでいて、はたと気が付いた。作者はあまたの自殺者たちの悩みをこれでもか、これでもか、と広げて見せながら、その悩みの一つ一つに対して、シンデハイケナイ、シンデモウカバレナイ、イノチハアタエラレタブンダケウケトレ、とくどいほど丁寧にメッセージを発しているのだ。600ページの長さは、自殺予備軍の人たちに翻意を促す説得と考えれば、作者にとって、必要最小限の長さに違いない。作者の志は善し。話も面白い。現代の病理を的確に描いている点も共感できる。そう考え始めてからは、設定のゆるさや荒唐無稽さも気にならず、怒涛のようにクライマックスまで読み進めた。

最後の一人の救出は、泣けた。作者のメッセージの勝利だ。

 この世の闇(病み)を煩っているのは、自殺しようとしている人たちではなくて、生き辛くしている社会、その歯車を動かしている私たちではないか、ということに気づかない限り、自殺者年間3万人という日本社会の恐るべき数字の説明はつかないと思う。

この作品、中高生だけに読ませるのはもったいない。

夏の終わりのヴィシソワーズ

 コーラスの夏合宿(清里・清泉寮にて)で買ってきてもらった赤ワインがあるので、久しぶりに洋風の食卓にしよう。今年の夏、一度も口にしていないヴィシソワーズ、魚介のサラダ、ポークステーキトマト風味、おつまみに軽井沢で買った和風葱マヨをのせたクラッカー。とても暑い日だったので、冷たく冷やしたヴィシソワーズがとても美味しいと好評。

 もう20年も前からガラスの2重になった冷スープ用の皿を探しているのだけど、見つからない。下のボウルに氷を入れて、上の皿にスープを注げば見た目も涼しく、美味しさもひとしお、と思うのだけれど。

2008年9月4日木曜日

「すべては音楽から生まれる」  茂木健一郎著

Kが買ってきた本だ。彼がこのような本を自ら買って読み始めるとは、6年前には想像も出来なかった。

私が読みたいと思う本を不思議なことに選んでくる。親子だな。趣味や興味も重なる部分が多い。

以前「クオリア降臨」で読んだ茂木さんの「クオリア」の概念が、この本にも出てくるが、そのとき漠然としていたことが1年たった今よく理解できる(ような気がする)。

35年前の「ペトリューシュカ」。父が買ってきたバーンスタインの1枚は、1週間の間、私には不可解な音の、断片的な集まりにすぎなかった。それがある日ある瞬間を境に、はっきりと旋律の重なりが意味をもって迫ってきた。あの時の驚きと喜びを今でもはっきりと覚えている。脳の中では何が起こっていたのだろう?ごろごろ転がっていたあまたの石ころから突然光が四方に広がり、脳は狂喜した。
「お父さん、判ったよ」と興奮して語った私を見る父の優しい目を思い出す。

映画を観たり、本を読んだり、様々な芸術作品を鑑賞する行動は、すべてあのペトリューシュカのような衝撃を再び脳に与えたいが為かもしれない。一生のうち、そんな幸せな出会いをいくつ経験できるだろう。

あの瞬間、世の中の風景が変わったような気がした。