2008年12月16日火曜日

「豚のいる教室」

11月30日(日)
珍しく娘が見たいと誘ってくれた映画。
いろいろ考えさせられた。
教師の力量、飼育に関する知識と経験、親や子供や教師集団の信頼関係、それらが ないとしんどい授業になる。学校や子供たちを引っ掻き回すだけで終ってしまう恐れもあるだろう。

昔、同僚の女の先生は、食事会のとき尾頭付きの魚を食べなかった。
魚の目が怖いし、かわいそうだから、切り身しか食べられないの、と。
彼女は美食家で、鶏でも牛でも豚でもよく食べた。
尾頭付きの魚だけでなく、どんな肉にも命があった事は確かなのに。
彼女の感じ方に違和感を覚えたものだ。

子供たちには魚を下すところをよく見せる。
鱗が飛び散るところ、頭を出刃で叩き落すところ、3枚に下して皮を剥ぐところ。
鯛のようにある程度大きくて血液が赤い魚は、結構つらい。
最初は残酷という顔で見ている子供たちも、そうした命を食らって私たちが生きていることを
実感してくれるのだと思う。子供たちには、せめて魚を自分の力で捌けるようになってもらいたい。

しかし、自分で解体できるのは魚まで。牛や豚はともかく、鶏でも捌いたことはない。
私が小学生の頃、家で鶏を8羽ほど飼っていて、母が何度か絞めたことがあった。
その現場は、私たちに見せないようにしていた。
私たち兄弟は今まで餌を与えていた鶏の1羽が殺されて、調理されて、私たちの胃袋に入るという
事実に戦きながら、食卓を囲んだ。美味しかった。

生活の中で命を感じることが少なくなっているという。
昔はお年寄りは家で亡くなる事が多かった。
新しい命も産婆さんの支えで家で生まれた。
今ではどちらも病院内で、事が運んでしまう。
食べ物も、命を感じさせない形で小奇麗にパックされて売られる。
ホームレスの人たちを襲撃して殺めてしまう子供たちが現れ 、一方でペットを人間のように扱う人たちが増え、そのニーズに答える業種が 繁盛している。

歪を感じる。

映画館を出てから、娘は豚を解体業者に送る事を選んだ、という。
なるほど、と頷きながら、私は彼女の答えをどうとらえたらよいのか、 まだ解らないでいる。

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