2009年4月27日月曜日

「有頂天家族」 森見登美彦

京都の町は作家の想像力をふくらませる、宝箱みたい。
まともな生き物がまるで出てこないのだが、皆魅力的。
ファンタジーの新しい世界。

2009年4月26日日曜日

中川昌三さんのフルート

目黒のBLUES ALLEY JAPAN へ。
大野雄二&スペシャルフレンズ3days
今日はボサノバのソニア・ローザさんをフューチャーしたライブ。
始まる前からわくわくどきどき。
ソニアさんの可愛らしさ、魅力的な歌声に魅了されました。
中川昌三さんのフルート、素敵でした。
石塚まみさんとのデュオ、フォンチのブラジル音楽、そしてボサノバ、
中川昌三さんのフルートはいつも透明な高い青空を感じさせてくれます。
ふわふわ気分で一宮まで帰ってきました。
こういうのを魂の贅沢っていうんです。

2009年4月20日月曜日

陽春花形歌舞伎 雷神不動北山櫻

家を出ようと言う時間になって、母が「足が痛いから行けない」と言う。
駅まで自転車で行けば、後はエスカレーターとエレベーターを極力利用し、名古屋駅からタクシーで御園座に行けばいいから、頑張って行こうよ、と誘うが、自信がないから、と仰る。
すぐ病院へ行くほどでもなさそうで、じっとしていると痛くないらしい。歩く時少し足を引きずっているので、やはり無理をさせてはいけない、と諦める。

それからがたいへん。チケットがもったいないのであちこちにメールしたり電話したり。
ようやく「ひ」のところでHさんが来てくださることになり、ほっとする。

さて、市川海老蔵を生で観る初めての舞台。海老蔵さまは本当に華がある。姿の美しさ、顔立ちの美しさ、仕草も洗練されている。1人で5役の演じ分けも、それぞれの個性を発揮して見事。1人の花形歌舞伎役者の発散するオーラを堪能させていただいた。

一つ、難を言わせてもらうと(海老さまゴメンナサイ)
声。くぐもったような声で、今ひとつ響に不足が。お風邪でも召していらっしゃったのか、いつもあの声なのか、私にはわからないけど、少々残念。

歌舞伎は動と静のコントラストに特徴のある芸術だとつくづく思う。最近オペラを見ることが多かったので、余計感じたのかもしれないが、見得を切るときの静止は一枚の絵として観客にそのシーンを強烈にアピールする。動きの激しい時でも、動の中に静を感じる。

オペラはストーリーが大切で、一部分だけ抜粋して演じることは殆どないと思うのだが、歌舞伎は名シーンだけ、一幕だけの上演がよく行われる。これは、ストーリーよりも、絵として切り取って鑑賞し、楽しむ風が強いせいではないか。

など素人考えでいろいろ感じた1日。おもしろさ、楽しさ、スペクタクル、笑い、お色気、驚き、ありとあらゆるお楽しみ要素満載で、贅沢な演目だった。

2009年4月12日日曜日

オペレッタ映画 「こうもり」

4月10日(金)
名古屋芸術創造センター
METを見慣れた目には画面のざらざらが気になるが、「こうもり」だもの、許しちゃう。

聴きなれた前奏曲、胸がどきどきしてくる。舞台をそのまま撮影したのでなく、あくまで映画として撮ったものなので、演出もきめ細かく、セリフも気が利いている。舞台を観た時はもっとセリフが大まかだったように思う。しかし、舞台風味付け。実写でござい、でないから、安心して観ることができた。

ウイーンフィル、カール・ベーム、ウイーンフィル、ウイーン国立歌劇場

ロザリンデ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
アイゼンシュタイン:エバハルト・ヴェヒター
アデーレ:レナーテ・ホルム
オルロフスキー:ヴォルフガング・ヴィントガッセン

オルロフスキー女性のアルトか男性のカウンターテナーが演じるものしか観たことがなかったが、今回はテノールの若くない歌手。このほうがわざとらしくなくて私は好き。

体調が優れなかったので、途中数度寝てしまう。そのつどすぐ目を覚ますが、
もったいない。

2009年4月7日火曜日

中学入学式

しーん。
きれいに整列して子供たちが入場してくる。私語を発する子等は1人もいない。1年生は緊張してぴーんと張り詰めた空気。2年、3年生も、驚くほど静かに入場し、着席する。さすが、中学校は小学校とは違うな、と感心する一方、子供たちの猫背、生気のない表情、暗い雰囲気が気になる。

静かな入学式のあと、始業式にも参列してよかったので、そのまま会場に残る。親たちの殆どは外へ出て、残っていた親は20人くらいか。

始業式、やはり子供たちは静かに入場し、静かに着席。突然先生の怒声。「頭を動かすな!」
「フラフラするな!」
にらみを利かして生徒たちの側を威嚇して歩く先生たちの厳しい顔、顔、顔。

なるほど、静かなのは、こういうわけだったのか。

気の小さい、新一年生の娘はさぞビビっているだろう。気の小さい私も、あの怒声には心臓がどきどきする。人の尊厳の敏感なところをぴりぴり刺激する怒鳴り声。自分が叱られているわけではないのに、胸が苦しくなる。私が中学生だった頃と学校のやり方は同じではないか。

このような「指導」でなければ、子供たちを静かにさせられないのだろうか。
そう質問すれば、おそらく「もちろんその通り、こうすることでしか今の子供たちを大人しくさせることはできません」と答えが返ってくるだろう。しかし、本当にそうなのだろうか?脅しに頼らず、子供たちの意識を高める方法は本当にないと断言できるのだろうか?世界の、あらゆる国で、このような方法による中等教育が行われているのだろうか?

脅しをかけて、怒鳴りつけて、押さえつけることは調教であって、教育ではない。
ただ、騒がしく収集が付かなくなるよりはマシなので、致し方なく「調教」せざるを得ないのだろう。先生方も、あんな声を出したくて出しているのではない、と信じたい。

しかし、先生方には、「調教」でいいのだ、とそこで思考をストップしてほしくない。大人しくきちんと人の話が聴ける子供たちもいて、その子等の心を傷つけていることから目を背けないでほしい。そして、調教でなく、教育の方法を追及することを忘れないでほしい。

2009年4月5日日曜日

心を育てる音楽とは?

なぜ合唱を子供たちに勧めたのか。

競争、競争で人と比べることでしか存在の意味を確かめられない今の教育のあり方に疑問を持っていたから、人の声を聴いて、協調することで自己の、そして全体の成長を望む合唱は、オアシスのように感じた。

進学するための勉強をする場所になってしまっている学校では得られない、進学の役に立たない教養を身につけることのできる場と思ったから。

だから子供たちが合唱の魅力に盗り付かれた時、わたしは彼らの感性を歓迎し、大いに応援してきた。

しかし、しかし、しかし!

今のあの子達は周りの声を聴いているだろうか?人の心の訴えに気づいているだろうか?
仲間の声を大切にしているだろうか?

方針に合わないからと、当たり前のように恩師を切り捨てていく大人たちのやり方に傷ついているのは他ならぬ子供たちではないのか?

礼を尊ぶこと、感謝の念をあらわすことを教えられない子供たちは不幸だ。彼らは周りに同じようにするだろう。「崇高な」目的のためには切り捨ててもいいものがある、と大人たちが身を持って教えている。

こんな合唱団に子供の教育の一端を任せることはできない。
心を育てる音楽はどうなったの?

哀しい。