2009年5月23日土曜日

生と死の境

父の病室から広い空が見える。
はるかかなたに飛行機の銀色の光の点が見え、それがある地点に来ると、そこからまっすぐ、がんセンターに向かって進んでくる。大きな翼が足を出し、着陸態勢になって病院上空を通り過ぎて行く。
この風景を、最初の頃は興味深く見ていたのだが、次第に残酷に思えるようになった。

死界と現世を結ぶメッセンジャーのように見えるのだ。
飛行機の銀の点が近づくのを見るのは、死の世界の一部を見ているようで、心がざわついた。
父はどう感じていたのだろうか?

市民病院からがんセンターへの転院は意外なほど早かった。大動脈に癌が接しているということで、手術は無理なので照射が始まった。照射で癌が小さくなるのが先か、大動脈が浸潤され、破壊されるのが先か?という綱渡りの状態だった。

父は昼間はじっとして、たまに話をして、喉を潤すためのうがいをして、(飲み込めなかった)静かに過ごしたが夜10時ごろになると呼吸困難の発作を起こすようになった。大きくなりすぎた癌が気管支を圧迫して、息ができなくなる。

父の呼吸が次第に浅く、頻繁になる。ナースコールを押せ、と目で合図する。看護士さんが駆けつける。酸素吸入。頑張って、死んではだめ。がんばって!ベッドの上でのたうつ父の姿を、私は両手を合わせて見守り、祈り、叫び続けるしかなかった。
毎晩、死と隣り合わせの日々だった。そんな状態が2週間くらい続いただろうか。

父の精神力はたいしたものだった。看護士のAさんは「こんな患者さんは初めてです。普通なら、精神的に参って、わがままを言ったり、無茶なことを言ったりして、困らせるものなのに、じっと静かに闘っていらっしゃる。」といってくださった。私たちにも父は愚痴一つこぼさず、辛いとも言わず、1人で耐えていた。私はそんな父の体の癌があると思われるところを手のひらをあてて温めることしかできなかった。

父はこの困難をとりあえず乗り越えることができた。
癌が照射のおかげで小さくなり始めたのだ。 照射が間に合ってよかった、と私たちは安堵した。が、それは新たな苦しみの始まりでもあった。そのことに気づくのに1ヶ月もかからなかった。

癌が小さくなったことで夜半の呼吸困難もなくなり、少しずつ液体なら呑みこめるようになってきた。
並みの精神なら、持ちこたえることはできなかったでしょう、すごい患者さんです、と言われた。

父は、私たちのために、なんとか持ちこたえてくれた。

2009年5月18日月曜日

シネマ歌舞伎「刺青奇偶」

 久しぶりに、何も用事のない日曜日。
「何かある?」「何も。」「じゃあ、映画、行こうか?」
運良く観たいと思っていたシネマ歌舞伎「刺青奇偶」が前日からはじまったばかり。

地味な作品だが、なんだろう、この張り詰めた緊張感。玉三郎と勘三郎、この2人の充実した演技、台詞回し、存在感。舞台の上に立つだけでタメイキがでそうなくらい深い。

冒頭のシーン、玉三郎が放心した様子で海を眺める。その佇まい。科白もなく立ち尽くす姿はこの作品の全てを既に物語っている。感じてくださいよ、静かに包み込むように作品の心をあじわってくださいよ、と。

他の脇役も見事。
大切に、大切に、練り上げられ、作られた「こころ」そのもの。
観客も、疎かには観ることはできない。

2009年5月15日金曜日

宣告を受けた日

6年前の9月に私の婚家先で法事があり、両親が出席してくれた。その数ヶ月前から、父が食事の時、食道に違和感を感じると訴えていて、だから法事のお食事はあまり食べられないよ、と聞かされていた。病院で食道や胃を検査してもらっても何も異常がないのだが、なぜ食べられないのだろう?と言う父に、精密検査したほうがいいんじゃないの?と口だけで心配する私だった。

その後、ますます食が細くなり、塊を飲み込めなくなってきて、体重が激減したこともあって緑市民病院で検査入院。悪い予感がして病院へ駆けつけると、青ざめた母の顔。

「○○ちゃん、大変なことになっちゃった」
その母の一言で、私は悟った。
「肺の癌だって、悪性だって、もうダメかもしれない。」
母は揺れる目で搾り出すように言った。

父は1ヶ月前より更に痩せ、険しい顔になっていた。
あまりに急激な体力の衰えと水分しか飲み込めなくなったことのショックで、既に死期を悟っていた。

弟と姉と母と私。
どうする?何ができる?

病院からの帰り道、秋の夕暮れは 大きすぎる夕日と、赤黒く染まった大きな雲の塊。
何も起きていなければ、美しい空だと見とれるだけだっただろう。
市民病院から鳴海駅まで歩きながら、私は色と形を刻々と変える空を眺めて、天が 父の病は治らないのだと示しているように思えて仕方がなかった。
治るかもしれない、まだ間に合うかもしれない。
がんセンターに移って最新の治療を受けることができれば、もともと頑強な父のこと、 復活して元気になってくれるかもしれない、と祈るような気持ちで空を仰ぐと、 美しすぎる空が、運命には逆らえないのだよ、と大きな力をあらわしていた。

あの時、希望を持とうと、何か良い兆しを得ようとしたが、無理だった。
私は父の死を予感し、でも、できる限りの事をしようと決意した。

2009年5月8日金曜日

救急車

救急車のサイレンを聞くと、いつも胸が痛くなった。
次第に近づいてきて、側を通過していく。音が渦を残して去っていく。その中に自分が乗っているような気がして、父の傍に座り、簡易ベッドを力いっぱい掴んでいた手の感覚を思い出して、涙が出た。
そんなことの繰り返しだったが、最近ーこの1年半くらいは、随分感じ方が弱くなったと思う。
サイレンを聞いても、涙は出なくなった。
お父さんは、もう届かないところへ行ったのだ、と静かに思う。

再入院するのに、必ず救急車をつかってください、とお医者に言われた。私は救急車に乗るのは初めてだった。
小さなベッドに父は縛り付けられ、救急車は発進。その瞬間、上下に左右に、ベッドが揺れ始めた。
こんなに揺れるの?私と母は必死で父のベッドに手をかけた。が、そんなことぐらいで揺れは収まらない。癌が肩の骨に転移して、じっとしていても痛い状態なのに、まるで遊園地のジェットコースターみたいな激しい揺れ。サイレンを鳴らす以上、早く走らなければいけないのか、スピードを上げると父の体がベッドの上を何度もバウンドした。
痛みで唸り声を上げ続ける父。 15分ほどの距離がとても長く感じた。
どうして病人を乗せる救急車が、こんなにひどい構造になっているのか、理解に苦しむ。あれでは怪我や病気の重篤な人は状態を酷くしてしまう。

父の乗った救急車だけの問題なのか、それとも救急車はみな似たり寄ったりの作りなのか、わからないが、せめて揺れを少なくするようにゆっくり走ってほしかった。病院に着いてから、父は、癌になって初めて周囲に怒りを爆発させた。よほど辛かったのだろう。
あの時、もっとゆっくり走って!となぜ私も母も言えなかったのだろう?
悔いが残る。

2009年5月7日木曜日

父の命日

明日は、5月8日。5年前、77歳で亡くなった父の命日。
肺腺癌だった。

予感、というのは確かにあると思った。

あの日、あと1週間もつかどうか、と言われていたので必ず誰かが父の側に付いていることにしていたのだった。

病院に泊まって、母と交代して家に帰ったのが午前中だったと記憶している。夕刻、母が体調不良を訴えて家に帰ったと姉から聞いたとき、黒い不安が胸に広がってきて、いてもたってもいられなくなった。

すぐに着替えて、病院へ向かった。あのときの胸の動機、今も覚えている。名古屋駅で、私は走り出していた。地下鉄のホームまで、人とぶつかりそうになりながら全力で走った。走りながら、涙が出た。待ってよ、まだ今死ぬっていうわけじゃないのに、どうしてこんなに涙が出るのだろう?やめてよ、まるで本当に今、死んでしまうみたいじゃない。そんなことをつぶやきながら。

自由が丘の駅からがんセンターまで、坂道を12分。走った。あえぎながら。エレベータを降りて父の病室へ、看護婦さんたちがあわただしく立ち動いていた。

「ああ、いらっしゃった、今お母様にご連絡差し上げたところです。早く行ってあげて。ほんの5分前まで意識があったのに、昏睡状態になられました。」
「声をかけてあげてください。きっと聞こえますから」

 私は上がった息で、父の手を握り、耳元で、何を言ったのだろう?
今まで、本当にありがとう、とか 高校生の時一緒について来てくれたロックコンサート、楽しかったね、とか、いっぱいいろんなことを、この世の楽しいこと、美しいことを見せてくれてありがとう、とか、ああ、 何を話したのだろう?あなたの生き方が好きだったよ、とか。いろいろあったけど、お父さんの娘で本当によかった、とか・・・・。何も、何も、言い尽くせなかった。もっともっと、早く言っておけば良かった。こんなになってからしか、言えないなんて。

でも、混乱した哀しみと絶望の渦の中で、私は父の臨終の場に居合わせる事ができて、不思議な安堵も感じていた。

あの日の「予感」は、父が私にくれた最後のプレゼントだと思っている。

2009年5月3日日曜日

「恋文の技術」 森見登美彦

う~ん。辛いなあ。
流行作家の作品なら何でも読みたいという性格ではないので、読了後、時間を無駄にした気分を
苦く味わっている。
でも。これをいいという人もいるのだろうな。
私は前作の「有頂天家族」の方が数段楽しめた。

昨日は歓送迎会。あまり飲んでいないのだが、今朝起きるのが辛かった。
もう若くないと言うことね。