2008年12月17日水曜日

紛失

12月17日(水)
Aが参ったな、という表情で訴える。
またお金がなくなって、おばあちゃんはAのせいにしているらしい。
「言わなくても、神様はご存知なんだよ」と窘められたという。
今回は10万円、先月は7万円、その前は3万円の紛失を孫の仕業だと思っている。
後になって変なところから封筒に入ったお金が出てきても、Kを疑ったことは忘れてしまっている。
以前は理由なく疑うようなことは決してしない人だったのだが。
なぜか嫁である私のせいにはしない。
いつもAが悪者になる。
おとなしくて性格も穏やかで、良い子なのに。
病気のせいだから仕方がないよ、と彼が言ってくれるのは救いだが、気分が良いはずはない。
トイレットペーパー、歯磨き、カバン、財布・・なくなったものはみな孫のせいになる。
印鑑も通帳も紛失の繰り返しで何度再発行したことか。
それでも自分で持ちたがる。
自分のものだから、自分で持ちたいのは当たり前だが、失くして探す労力を考えると、私たちが持って、言われたときに出してあげるのが良いと思うのだが。

Aが母を嫌いにならないようにフォローしなくては。

母と病院へ

12月15日(月)
母と病院へ。もう母1人では行けないかもしれない。途中、おかしな方角へ自転車を走らせようとするので、声をかけた。私より前を走ろうとしない。
今日は問診に1時間半もかかった。その間1対1で観察し続けるお医者さんの仕事の大変さを思う。母は問診の中でいろいろな作業が思うように出来なくてがっかりするかと思ったが、意外なほど元気。先生の対応がお上手なのだろう。
薬をきちんと飲んでいるか、毎日チェックが必要になってきた。

フォーラム21クリスマスコンサート

12月13日(土)
初めての楽屋裏仕事。
座席でゆったり聴けないのは残念だけど、舞台袖から子供たちの真剣な姿を見られた。
それにしても観客が少ない。
いろんな意味で、余裕がなくなっているのだろうか。

2008年12月16日火曜日

「豚のいる教室」

11月30日(日)
珍しく娘が見たいと誘ってくれた映画。
いろいろ考えさせられた。
教師の力量、飼育に関する知識と経験、親や子供や教師集団の信頼関係、それらが ないとしんどい授業になる。学校や子供たちを引っ掻き回すだけで終ってしまう恐れもあるだろう。

昔、同僚の女の先生は、食事会のとき尾頭付きの魚を食べなかった。
魚の目が怖いし、かわいそうだから、切り身しか食べられないの、と。
彼女は美食家で、鶏でも牛でも豚でもよく食べた。
尾頭付きの魚だけでなく、どんな肉にも命があった事は確かなのに。
彼女の感じ方に違和感を覚えたものだ。

子供たちには魚を下すところをよく見せる。
鱗が飛び散るところ、頭を出刃で叩き落すところ、3枚に下して皮を剥ぐところ。
鯛のようにある程度大きくて血液が赤い魚は、結構つらい。
最初は残酷という顔で見ている子供たちも、そうした命を食らって私たちが生きていることを
実感してくれるのだと思う。子供たちには、せめて魚を自分の力で捌けるようになってもらいたい。

しかし、自分で解体できるのは魚まで。牛や豚はともかく、鶏でも捌いたことはない。
私が小学生の頃、家で鶏を8羽ほど飼っていて、母が何度か絞めたことがあった。
その現場は、私たちに見せないようにしていた。
私たち兄弟は今まで餌を与えていた鶏の1羽が殺されて、調理されて、私たちの胃袋に入るという
事実に戦きながら、食卓を囲んだ。美味しかった。

生活の中で命を感じることが少なくなっているという。
昔はお年寄りは家で亡くなる事が多かった。
新しい命も産婆さんの支えで家で生まれた。
今ではどちらも病院内で、事が運んでしまう。
食べ物も、命を感じさせない形で小奇麗にパックされて売られる。
ホームレスの人たちを襲撃して殺めてしまう子供たちが現れ 、一方でペットを人間のように扱う人たちが増え、そのニーズに答える業種が 繁盛している。

歪を感じる。

映画館を出てから、娘は豚を解体業者に送る事を選んだ、という。
なるほど、と頷きながら、私は彼女の答えをどうとらえたらよいのか、 まだ解らないでいる。

2008年11月26日水曜日

「ぼくんち」 西原理恵子

11月5日
Aの貸してくれた本。
西原理恵子さんの「いけちゃんとぼく」を読んだのは1年前。あの1冊だけで心を鷲掴みにされて西原さんが大好きになった。
「ぼくんち」はこれもまた傑作。人間の強さと弱さ、喜びと悲しみ、愛と無関心、「善きもの」と「悪しきもの」の一筋縄では説明できないどろどろをこんな形で表現できるのか、と感嘆する。
どんな人生もいとおしい。歯の抜けた兄ちゃんの笑顔、最後に来た手紙。姉の底抜けの優しさ、弟の旅立ち。だれでも心に「ぼくんち」「わたしんち」があるから生きていけるのかもしれない。

京都 大原 紅葉の美

11月14日(金)
日帰りでバス旅行。大原三千院、寂光院へ。
紅葉真盛り。お天気も最高、如何せん時間が足りない。
追い立てられ、駆け抜けるだけでじっと佇む余裕のない時間を旅とは言いたくない。
次回、母たちを連れてくる時はもっとゆっくりしたい。
土産物屋を見物の時間に組み込む必要は全くない。

日光東照宮~霧降高原の旅

11月1日~3日(土~月)
日光東照宮へ、家族5人+私の母で旅行。 年寄り二人を連れていくので、なるべく楽に移動できるよう、ジャンボタクシーを頼む。 紅葉真っ盛りのハイシーズンなので、日光市内のジャンボタクシーは予約がいっぱい。 宇都宮のタクシー会社に依頼して、宇都宮駅から観光しながら日光のホテルまで 行ってもらうことにする。これが大当たり。 タクシーの運転手さんは博識で、普通の観光なら行けないところや、歴史的に押さえて おきたいスポットをまわってくれた。母は日光杉並木を車で走れたことをとても喜んでくれた。 紅葉の霧降高原ドライブ、霧降の滝、大笹牧場、日光市内の千年松、憾満ケ淵、神橋。 おかげで、あれだけ盛りだくさんの観光をしたのに一同疲れも出さずにホテル着。 後でインターネットで調べてみたら、あのタクシー運転手さんはカリスマだったと判明。流石。

翌日は日光2社1寺めぐり。午前中にざっと見て、午後は他所へ行こうと思っていたが、なんのなんの。時間が足りない。家光公の大猷院と、二荒山神社、輪王寺を見学するだけで午前中は終了。お昼はホテル近くの四川料理を楽しみ、午後はお待たせ、東照宮へ。母と義母はとても元気で、なんと207段ある奥宮まで制覇してしまった。人が多くて、立ち止まりながらゆっくりゆっくり登ったので、最後までついてこられたのだろう。

最終日は 、初日にタクシーの運転手さんから教わった、「殉死の墓」を訪れてから田母沢御用邸記念公園へ。御用邸は広くて調度品襖絵なども見ごたえがあった。紅葉の美しい庭園を散策していたら防空壕を見つけた。こんな軍需産業のないところまで空襲のおそれがあったとは。

夫と母以外は初めて訪れる日光、紅葉の美に眼を奪われ、2社1寺の造詣美に浸り、日本に生まれ育ったことを心から感謝した旅だった。子供たちも満足した様子。

読み聞かせボランティア 2

10月31日(金)
今日も読み聞かせ。5年生のクラスと市民病院の院内学級へ入る。
病院では院内の授業に出てこられる、比較的元気な子たちが
読み聞かせの相手とはいえ、楽しい話を聞かせて病気のことを
一時でも忘れてもらいたいと思う。今日の「ぞろぞろ」はうってつけ。
元気に腹の底から笑って、病気なんか吹き飛ばしてほしい。
生徒数は少ないが、院内の先生と教頭先生も同席されたので、少々緊張した。

反省会で、お母さんたちの前でも読むことになる。
一番よく笑ってくれたのはお母さん方だった。

落語口調を真似て読もうとすると、どうしても体が演じてしまって、
紙芝居の紙の上から私の頭が左右に動くのがちらちら見えるらしい。
お話の邪魔になるだろうが、そうしないと落語の口調が出てこない。
やっぱり紙芝居の限界かな。

読み聞かせボランティア

10月30日(木)
小学校2学期読み聞かせボランティアの日。
5年生に「落語紙芝居 ぞろぞろ」三遊亭圓窓師匠著 を読む。
喜んで聞いてくれるのがわかって、嬉しい。
以前、6年生のクラスを訪れた時より紙を送るタイミング、
口調のスピードなどを家でみっちり練習した。
自信をもって読めたのが良かったのかもしれない。

2008年10月21日火曜日

結婚式

10月20日 (日)
つれあいの従兄の息子さんの結婚式に夫婦で招待された。
とても良いお式だった。
場所は一宮ガーランド。
最近のお嫁さんはうち掛けも振袖も着ない人が多いという。

2008年10月18日土曜日

住友郁治さんコンサート

10月17日(金)
バロックの金子さん主催のコンサートチケットを頂いた。電気文化会館ホール。
子供たちは合唱のレッスンがあるので、残念ながら私だけ。

舞台上にはベヒシュタイン(独)のコンサート仕様グランドピアノとザウター(独)のアップライト、プレイエル(仏)のアップライト。3台のピアノの音比べをコンサートホールで聴かせてもらうのははじめてのことでとても興味深い体験だった。アップライトの2台はホールで聞くにはボリューム不足だが、音の魅力は十分に伝わった。家に置いて聴いてみたいと思ったのはプレイエル。温かみがあって、繊細で、住友さんが仰った、「会話をしているような表現ができるピアノ」という言葉に頷ける魅力を持っていた。アップライトでも素敵な音楽が聴けたことで、わが家のツインマーマンちゃんも腕が良ければもっといい音を聞かせてくれるんだと納得。ツインちゃん、ごめんね。Iの腕がもっともっと上がることを祈ろう。

バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第一曲 プレリュード
ブラームス 2つのラプソディー OPS79-1
リスト ハンガリアン・ラプソディー 第2番   圧巻。
もっと聴き続けていたかった。

2008年10月15日水曜日

「あしながおじさん」 J・ウエブスター作 坪井郁美 訳

英語の勉強で、「ジェルーシャがあしながおじさんに初めて書いた手紙」を暗記して、これは面白そうだ、読まなくては!と手に取った少女小説。

昔むかし、小学生の頃、学校図書館で借りたが、数ページ読ん全然面白くなく、挫折した記憶がある。
今読んで、この物語の本当の面白さは小学生の私ではわからんわい、と納得した。

殆どジェルーシャの手紙だけで物語が進んでいく。閉ざされた世界ー孤児院で植えつけられたsensitiveな視点が、友人やその家族とのふれあいにより融けていく様、ジェルーシャの大人の女性としての心が成長する様、大学生としての知的成長、それらをすべてジェルーシャの手紙によって読み取ることが出来る。一人の女性が劣等感の渦の中から人としての自立を勝ち取っていく目覚しい成長過程は10歳そこそこの私には理解できなかった。あしながおじさんとの駆け引きの面白さも、大人のお話。

名作といわれて読んでいない本はまだたくさんある。「あしながおじさん」と幸せな再会が出来て良かった。今度は何を読もうかな。

2008年10月14日火曜日

「パコと魔法の絵本」

10月13日(月曜)
Iのたっての希望で、名古屋のピカデリーまで2人で映画を観に出かける。監督が中島哲也さんなので、期待は高まる。「嫌われ松子の一生」はTVで観て衝撃を受けた、だから「パコ」は絶対劇場の大画面で観たかった。予想通りの映像の楽しさ・美しさ。出演者も一人一人の個性と役割がはっきりしてわかりやすく、娘も大いに楽しんだ様子。製作者たちが工夫を凝らして、大人も子供も喜ぶ映画を作りたいと願う気持ちがストレートに伝わってくる。Iは映画館から出るや否や「お母さん、DVD絶対買ってね」と興奮気味だった。子供映画って、大人は付き合いで見る程度だし、大人向け映画では子供は理解が難しいし、で一緒に楽しめる映画は少ないのだけど、「パコ」は大正解。DVDじゃなくて、もう一度映画館で観たい。

食事は、鳴海の母・弟もいっしょに、駅前のロイヤルパークインホテルの「京たち花」でお昼をいただく。ここは一本奥の立地なので駅前に似合わぬ静かな雰囲気が好きなのだが、今日は祝日なので人が多く、少々にぎやか。でもお食事は美味しかった。

帰り道、松坂屋前でKさんから「The Big Issue」を一冊購入。なんだか慈善家ぶるみたいで、買う時いつも胸がどきどきするのだが、Kさんと知り合いになって話が出来るようになってからは、知人の仕事に協力するという気分なので、胸のしこりは少し軽くなる。それに、この雑誌は値段に見合わず面白い。心から読みたいと思えるので、それも気持ちよく購入できる大きな理由。

2008年10月13日月曜日

一宮こども音楽祭

一宮サウスライオンズクラブ結成50周年記念事業。
子供たちと一宮の文化のためにこんな大きな音楽祭を催してくれるなんて、なかなか出来ないことだと思う。

第一部は童謡・唱歌・わらべうたコンサート。
一宮市内だけでなく、北名古屋市や各務原の合唱団も参加。
師勝少年少女合唱団、いわくら少年少女合唱団、木曽川KIDS,かかみのキッズ、皆日本のこどもの歌を聴かせてくれたが、歌が大好きな子たちが一所懸命歌う様は微笑ましく、上手い下手を越えて大いに楽しませてもらった。この日を迎えるために、沢山練習をしたんだろうね。ありがとう。
木曽川中学校吹奏楽部の演奏は、初めて聴いた。評判どおり聴きごたえのある演奏。小道具を沢山持って演技で参加した中学生たちのはつらつとした動きも楽しかった。

マイスターブラスカルテットはモーツアルトの魔笛より2曲など。漏斗とビニルホースを使った楽器でトランペットのような音を出して演奏したのにはビックリ。大うけしていた。

第二部は 落語と合唱のための「叩き蟹」 三遊亭圓窓師匠、フォーラム21少年少女合唱団、加藤洋朗先生指揮。
聴くのは3度目だが、どんどん進歩している。子供たちはいったいどこまで成長するのだろう?
これだけ目覚しい変化を見せられると、もっともっと先も観たくなる。フォーラム21の財産として、これからも上演し続けてほしいものだ。師匠の噺は何度聴いても泣けました。

2008年10月10日金曜日

「ぞろぞろ」 三遊亭圓窓師匠

一宮のN小学校で三遊亭圓窓師匠の落語授業が行われるということで、無理を言って見学させていただく。5年生たちの反応はすこぶる良い。素直な笑い声がふれあい広場いっぱいに響いて、師匠の話術に聞き惚れつつ、子供たちの笑い声にも心が癒された。純粋に楽しむ笑いは心地よいものだ。そんな笑いは人も自分も心を温かくしてくれる。

以前から師匠の「ぞろぞろ」は紙芝居で何度も読んでいたので、一度はライブで聴きたかった作品。いや、もう紙芝居と落語のライブでは全く違う(あたりまえだけど)。でも、間の取り方とか、声の調子とか、とても参考になった。帰宅してから「ぞろぞろ」を読んでみたが、表情の見えない紙芝居がつまらなく感じた。やばいですよ。落語を自分でもやってみたくなってきたのだ。どこか文化教室で「あなたも落語を1席覚えませんか」なんて、ないかしら?と考える自分に驚愕。この年になっても引っ込み思案で口下手で人付き合いの苦手な私が落語をやりたいとは!?いやいや、そんな性格だからこそ、殻を破りたいという欲求が潜在的に、胸のうちに隠れているのかもしれない。

さあ、再来週は娘の小学校の読み聞かせ週間。「ぞろぞろ」研究して、いっぱい笑いをとりたいな。

師匠、今日はありがとうございました。

2008年10月9日木曜日

黒いオルフェ 

光と闇を強烈に感じさせる映像。人々の感情はシンプルで力強い。
まるで神話の世界をリオに持ってきたかのよう。登場する人々はみなはっとするほど美しい。
主人公たちはともかく、穴の開いた服を着た子供たちも、雑貨屋のおばさんたちも、踊り狂う太った女たちも、みな表情が輝いている。

オルフェが「黒人の中でいちばん惨めな人間になってしまった」と嘆き悲しむ時、同僚が言う。「神に慈悲を乞うのだよ」と。現実の悲惨さに対峙するとき、彼らに残されたことは祈ること。そして生きている証しを全身で踊って表現することしかない。

彼らは貧しいなか、カーニバルのために生きているといってもいいほど衣装や準備に大枚をはたく。彼らの輝きは生きる喜びの発露のようだ。なんという力強さ。将来のために今を我慢してほそぼそと貯蓄しつつ、ささやかな幸せを追う私たちとの国民性の違いに圧倒される。圧倒的に貧しい国の人々が私たち日本人よりも力強い生命力を発揮できるのは、生き方の違いなのだろう。


オルフェとユリディスの悲恋ストーリーだが、この映画の本当のテーマは生命力の圧倒的な美だと感じた。

2008年9月29日月曜日

母の病院へ

母のことを新しく主治医になったM先生に報告に行く。

必要なもの(年金手帳など)を捨ててしまう。印鑑や通帳のしまい場所を次々変えて、自分でもわからなくなり、紛失する。一緒に探すのを嫌がる。なくなったものを家族のせいにする。市役所から届いた連絡書や郵便局から届いた「おしらせ」に母を責める文が書いてあると訴える。人の悪口をいう。この1ヶ月ほど新たに目に付き始めた症状。

一方で風呂を洗ったり、私の方の台所の後片付けなど、お願いしていないのにやってくれる。 意欲はあるし外出もしているのだから、そういう状態がこれからも続くように、できることを励ましてあげて、できなくなったことに意識が向かないようにしてあげるのが良いということだ。

いろいろなことが出来なくなると、攻撃的になる人、欝で引きこもる人、いろいろタイプはあるが、進んで家事を手伝って、まだまだ私は大丈夫とアピールする人は稀だとか。やはり義母は痴呆症になっても素敵な人だ。

M先生のあとでUさんのカウンセリングを受ける。各種金融機関の母を担当する人に、新たな契約を結ぶ場合は家族に相談してほしいとお願いしたら、と教えていただく。母はまだ自分はそこまで衰えていないと思っていらっしゃるし、あぶないから私たちが管理すると言ってしまうとプライドを傷つけることになるので、この案を取らせてもらう事にする。

2008年9月27日土曜日

「グロテスク」 桐野夏生

東電OL事件を題材にした小説。
怖いもの見たさで、いつか読みたいと思っていたが、なかなか勇気が出なかった。
米原万里さんの書評を読んで、手に取る気になったのだが。

最初の数ページで後悔した。これでもか、これでもか、と悪意に満ちた文章の止まるところのない表出に辟易しながらやめることができなかった。厚い上下巻なのに結局2日で読んでしまった。そこまで私をひき付けたのはもはや「事件」に対する興味ではなかった。小説の「悪意」の中に自分のある部分を見せ付けられたからだ。他人事の悪意ではない。自分の中にある差別意識、優越感、劣等感、それらに目覚めた思春期のころからこのかた私を苦しめ、反省もさせ、それでも払拭しきれていない業のような負の感情をクローズアップして見せてくれたからだ。

心の中にあるまがまがしいものを言語化して引きずり出す、作者の力に恐れを感じる。

お子さんを私学へ入れないの?と聞かれるたびに。心の中で「無用な優越感を持つ人間になってほしくないから、エリート私学へは行かせないの」と思っていたが、私の想像以上にQ女子高内の階級社会は凄まじいのかもしれない。

名古屋の名門私学T高校へ息子さんを入れている友人の言葉が現実味を帯びて思い出される。「私はT高校に息子を入れて、勉強面でも人としての成長と言う点でも、高校が良い教育をしているなんて、これっぽちも思ったことはないよ。頭のいい生徒ばかり集めて、学校以外に塾や家庭教師をつけている子がほとんどだから偏差値の高い大学に入って当たり前だし、あそこは親も、子も、異常なエリート意識に固まったおかしなのが多いから、いろんな面でゆがんだ学校。自殺も、いじめも、新聞に載らない様々な事件も多いんだよ。」と。彼女は同居する義母の強い勧めでT高校へ息子を入れたことを後悔していた。

差別することなく、差別されることもない、そんな社会はどこにもないかもしれない。しかし、私は子供たちに、自分の中の差別意識を常に見つめ、内省できる人間に育ってほしい。

「グロテスク」は、この競争社会に生まれる様々な差別に心を支配され、熾烈な戦いに挑み、そこから抜け出すために自爆した人達の墓標のような小説だ。これほどまでに後味の悪い小説はない。が、どろどろの中に何か確かなものを掴んだような気がする。それが何か、私の拙い作文では書ききれない。

作者に敬意を表する。

2008年9月25日木曜日

「心療内科を訪ねて~心が痛み、心が治す~」夏樹静子

交通事故で腕を失った人が、存在しないはずの腕の痛みに悩むという幽霊のような症例があると聞いたことがある。そんな時は、ない腕があるのだと脳に勘違いさせて、その腕を治療したと思わせることで痛みが消えるのだそうだ。(以前読んだ「脳は奇跡を起こす」にかいてあったこと。)

脳の不思議。

体も脳も、どちらも紛れもない「自分」なのに、脳が体を裏切ったり、体が脳を苦しめる。体が感じる自分と脳が主張する自分の矛盾。
体は悪くないのに、脳が病気を作り出す。痛みを作り出す。それを治療するのが心療内科の仕事だという。

私にも覚えがある。子供のことで悩んでいた時、私は潰瘍性大腸炎に罹患した。病気の悩みは、子供のことで悩む時間を減らしてくれた。脳が無意識のうちに、私の心の悩みにフィルターをかけようとしたのかもしれない。
最近は、呼吸がし辛くて、肺に何か病気があるのではないかと心配になって呼吸器科の検査をしたが、問題なしと診断されたとたん、治ってしまった。よくよく考えてみると、PTAの人間関係で四六時中悩んでいた。

いいかげんでいいんだ、と思えるようになること、心に問題があるのだと自覚することが、心因性の病の砂漠から抜け出す鍵となるらしい。私は神経質だが、結構いい加減なところがあるので重症化しないのかもしれない。心の持ちようを自分の力でコントロールすることは難しそうだが、ポジティブに、何でも悪いところには眼を半分つむり、良い点はしっかり受け止めることが大切だとつくづく思う。

2008年9月22日月曜日

悲しい民

今度首相になる人の顔を見ていると、悲しくなる。彼の失言の数々からは思いやりに薄く、自分の立場からしか物事を見ることのできない、想像力に欠ける人のように見受けられる。顔の品格もその評価を裏切っていない。

日本は先の大戦で敗北したあと、精神的な鎖国状態にあるような気がする。鎖国と言うのは言い過ぎかもしれないが、つまりは、アメリカのみを対外的な窓口として日本の進む道を決めてもらい、自分の頭で考えることを放棄した状態。はっきり言ってしまえば、属国。諸国からしてみれば、虎の威を借る狐のような存在だから、国際会議で重きを置かれないのも、大した発信ができないのもむべなるかな。

そんな日本の、総裁選の騒ぎを見ていると、候補者たちは他にすることがないのか?他に言うべき言葉はないのか?と哀れになってくる。何がって?日本に住む人々が、日本の未来が。政策だって、忘れっぽい国民の前で、5倍に薄めたウーロン茶。外交はアメリカさんのあとを付いていくだけ、国政もアメリカさんの希望に沿いつつ官僚の用意した政策に乗るだけだから、この問題てんこ盛りの大変な時、首相になる人を決めるのに能天気なお祭り騒ぎができるのかな。

でも、結局この国に住む人々が彼らを選んでいるわけだから、悲しい。

2008年9月21日日曜日

「鋼の錬金術師」

AがTVアニメのビデオ(全13)を借りてきたおかげでこの3日間は「鋼の錬金術師」を見続けて頭が痛い。

謎が謎を呼び、混沌が深まっていくばかりだったが、最後何とか話は着地に成功。面白いから仕方がない。でも、もうこんな面白く、長いビデオは借りてこないでほしい。勉強も読書もできん。

今日はお彼岸の御萩作り。漉し餡はまあまあの出来だったが、もち米をふかすのに大失敗。少しこがしてしまったため、風味がオコゲ。家人はみな美味しいと言ってくれたが、かなり悲しい味。ゴメンね、今度は上手に作るから。「鋼の・・・」を観ながら台所に立つと、こういうことに。

2008年9月18日木曜日

「ヤンヤン 夏の想い出」

木曜だけど、鳴海の母は俳句の会に出かけて不在なので、私は一人ですることのない1日。ずっと気になっていたDVDを観た。

「ヤンヤン 夏の想い出」エドワード・ヤン監督、脚本。 男の子の可愛いアップ写真と題名に騙されたが、これは完全に大人向け映画(大人でなければ理解できないという意)。大変真面目でペーソスが効いて、親の人生と子供の人生を丁寧になぞった佳作。

172分の長さは劇場で観るには良いけど、家で一人観るには緊張が切れそうで少々辛かった。が、半分を超えて父親の人生と、子供が現在遭遇している事件が重なり合う頃から監督の意図が伝わるようになってきて、なんとも愛しく心に染みる場面場面を食い入るように見入ってしまった。

祖母が孫娘の前に元気な姿を見せて、安心させてやるが、実は祖母は死んでいたという場面。父親が妻に打ち明ける場面。ヤンヤンの、祖母へのお別れの言葉。欠点だらけで生活の波に翻弄されてばかりの人々が大好きになった。私も、そう。失敗して、言い訳して、反省して、落ち込んで、でもヤンヤン一家のように誠実に生きていけばいいんだ、と。人生捨てたモンじゃない、と思える。

イッセー尾形が思慮深い日本人の役で出てきたのは嬉しかった。悪役に日本人が使われる映画が多いので、この役回りは意外に思ったくらい。

心が疲れたときにまた観よう。

2008年9月16日火曜日

「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」  奥田英明

この2冊もKのお薦め。

面白くて一気に読んでしまう。登場人物たちのこだわりの病は決して人事でない、私の周りには可笑しな人って多いなと思う。基本的に私は相手にとことん嫌われなければ、人を嫌いにならないタイプ。変な人でも外れた人でも、私にも変人っぽいところがあると十分自覚しているせいか、いいんじゃない?と思う。むしろ変なところを楽しんでしまう癖がある。私の魅力は世間とずれた部分、なんちゃって。

心にこだわりの種を持つ患者たちが右往左往して悩みまくり、それを治療する医者が輪をかけて変人で混乱をより過激に導き、結局患者を癒して心の安定を取り戻させる物語。登場人物一人一人にたいする作者の温かいまなざしが嬉しくなる2冊。私と同様Kも人物の描き方に癒されているのではないか?作品の疾走感も心地よい。続編読みたい。

Kの教えてくれる本を心待ちにするこの頃。息子と同じ本を読んで感想を言い合える喜びを与えてくれたドーマン研究所に心から感謝している。

十五夜お月様

昨日の話

スーパーマーケットでススキを買って、(興ざめだけど、近所にないのだ)上新粉で月見団子を作った。
いえ、作ったのは娘のM。私の体調が悪いので、すべてやってくれた。私は椅子に座って指示を出すだけ。その方が彼女のためになるとよく分かった。今まで、手伝いたいと言うMに対し、私が手を出しすぎていたようだ。しめしめ。これからは体調のせいにして、楽しくお料理修行をしてもらおう。

満月を家族5人並んで見上げるのは楽しい。

2008年9月15日月曜日

学校のトイレ掃除

小学校のトイレが非常に汚いとおかあさんたちの間で問題になっている。学校の先生方は今の時代、掃除のやり方を指導する時間がないらしい。掃除したあとのチェックも時間がなくておざなりのようだ。家庭でもしっかり掃除のお手伝いをしている子は非常に数少ないだろうから、結局学校でも家庭でも、教育力が低下しているということ。

汚くて手の付けられないトイレ掃除などは、一度きれいにこびりついた汚れを取ってから、子供たちに掃除の仕方を教えて、きれいにすることの気持ちよさを教えた方がよいのではないか。単に掃除しろ!では、掃除の仕方も知らない子供には何も出来ない、ということで、今日掃除道具を持って一人でトイレ掃除をしてきた。〈もちろん先生の許可を得て。こういうことを嫌な顔一つせずやらせてくれるこの学校の管理職の先生方には感謝!)体育館の女子トイレと男子トイレ。新築1年の体育館なのに、もう便器に輪染みが出来ている。床も壁も、手洗いも、汚れっぱなし。1週間前に同じトイレで見た便器横のおしっこ染みがすっかりそのまま乾燥jして残っている。掃除をした気配はない。これでは汚れるはずである。汚物入れの中もいっぱい。掃除道具入れの雑巾も濯いだ気配なしのまっくろけ。おまけにバケツには汚水が入ったまま。

男女のトイレ全部掃除するのに2時間とちょっと要した。

教頭先生に、毎日の掃除に割り当てられた時間を尋ねてビックリした。たったの20分、教室からの移動時間を考えると15分といったところか。そりゃ、きれいにしろというのが無理だわ。

学校全体がほこりだらけ、汚れだらけで非常に汚い理由がわかった。
親も、先生方も、子供たちをどんな環境で過ごさせたいのか、どんな子供たちに育てたいのか、今一度 考えないと、子供たちがかわいそうだ。

2008年9月14日日曜日

裁判所を見学

 PTAの社会見学で、地方裁判所を訪問することになった。
なんと、実際に行われている法廷見学だった。ショック。
2つの事件を傍聴したのだが、どちらの被告も、経済的な困窮がなければ、 そして辛い境遇になければその道に入らなかったかもしれない、と感じさせる 案件だった。 参考人質問させられる母親と恋人、涙で語る言葉も途切れ途切れだった。

 罪を償ったあと、社会へ出たときに、彼らを再び絶望させない環境作りが再犯防止のために 何より必要だと思う。

裁判官が、常に穏やかに噛んで含めるような口調で被告に語りかけていたのが印象的だった。罪を憎んで人を憎まずという司法の原点を見せてもらった。

 罪を犯す人々を断罪するだけでなく、この社会を差別や不平等のない、努力する者の報われる社会へ変えていくために、私は何ができるだろう?
重い社会見学だった。

2008年9月10日水曜日

「脳を活かす勉強法」  茂木健一郎

鶴の恩返し勉強法、瞬間集中法などなど、確かにその通り。勉強が楽しくて仕方のなかった中学生の頃、茂木さんの仰る方法でがむしゃらに勉強していたことを思い出した。

デモ、高校に入って、急に勉強が味気ないものになってしまった。最初のテストで信じられないような悪い点を取って自信を喪失し、大学受験がプレッシャーになって勉強を楽しいと思えなくなってしまった〈気の弱い私〉。

負の意識を持った人にこの方法を説いても無理じゃないかな。私があの状況から抜け出すには、勉強は他との競争のためでなく、自己実現のために必要なのだ、と心の底から実感できるまで、長い時間が必要だった。勉強を楽しいと思える人は、勉強法なんて経験から知っているのよ。

2008年9月9日火曜日

「打ちのめされるようなすごい本」  米原万里

 宝の山だ。毎週日曜日の一番の楽しみは新聞読書欄から面白そうな本を探すこと。そんな私にとって盆と正月がまとめて来たような本を手に入れた。

以前から気にはなっていたが、図書館で借りる類の本ではないし、狭い我が家でここ数年本を増やすことを罪悪のように感じていたし、もはやハードカバー500ページの本すら入れるスペースのないぎゅうぎゅう詰めの書棚と相談しつつ、ようやく購入したわけ。

米原さんの興味は多方面に及び、どの分野も涎が出そうな本ばかり。老眼を迎える前に出合いたかったと愚痴っても仕方がない。かたっぱしから読むことにしよう。

それにしても、米原さんはどうして私の好きなことがわかるのだろう?なーんてね、教養の差は月とすっぽん。だけど読みたいと渇望する自分の心が嬉しい。

2008年9月8日月曜日

「幽霊人命救助隊」  高野和明著

 高2の甥っ子S君が面白い本だとKに薦めたと聞いて、今日日の高校生はどんな本を読んでいるのかいな?という興味半分で読み始めた。

 自死した4人が神の命により現世の自殺志願者たちを救う物語は、劇画のような軽さですいすい読み進められる。文庫で600ページ近くある。5分の1程度読んだ時、このまま最後までこの調子で、100人救う目標達成に向かって同じテンポで進むのか、と思うと何か芸がないような、肩透かしのような気もした。

 しかし、自殺志願者一人一人を救うため、かれらの悩みを理解しようとする主人公たちの奮闘振りを読んでいて、はたと気が付いた。作者はあまたの自殺者たちの悩みをこれでもか、これでもか、と広げて見せながら、その悩みの一つ一つに対して、シンデハイケナイ、シンデモウカバレナイ、イノチハアタエラレタブンダケウケトレ、とくどいほど丁寧にメッセージを発しているのだ。600ページの長さは、自殺予備軍の人たちに翻意を促す説得と考えれば、作者にとって、必要最小限の長さに違いない。作者の志は善し。話も面白い。現代の病理を的確に描いている点も共感できる。そう考え始めてからは、設定のゆるさや荒唐無稽さも気にならず、怒涛のようにクライマックスまで読み進めた。

最後の一人の救出は、泣けた。作者のメッセージの勝利だ。

 この世の闇(病み)を煩っているのは、自殺しようとしている人たちではなくて、生き辛くしている社会、その歯車を動かしている私たちではないか、ということに気づかない限り、自殺者年間3万人という日本社会の恐るべき数字の説明はつかないと思う。

この作品、中高生だけに読ませるのはもったいない。

夏の終わりのヴィシソワーズ

 コーラスの夏合宿(清里・清泉寮にて)で買ってきてもらった赤ワインがあるので、久しぶりに洋風の食卓にしよう。今年の夏、一度も口にしていないヴィシソワーズ、魚介のサラダ、ポークステーキトマト風味、おつまみに軽井沢で買った和風葱マヨをのせたクラッカー。とても暑い日だったので、冷たく冷やしたヴィシソワーズがとても美味しいと好評。

 もう20年も前からガラスの2重になった冷スープ用の皿を探しているのだけど、見つからない。下のボウルに氷を入れて、上の皿にスープを注げば見た目も涼しく、美味しさもひとしお、と思うのだけれど。

2008年9月4日木曜日

「すべては音楽から生まれる」  茂木健一郎著

Kが買ってきた本だ。彼がこのような本を自ら買って読み始めるとは、6年前には想像も出来なかった。

私が読みたいと思う本を不思議なことに選んでくる。親子だな。趣味や興味も重なる部分が多い。

以前「クオリア降臨」で読んだ茂木さんの「クオリア」の概念が、この本にも出てくるが、そのとき漠然としていたことが1年たった今よく理解できる(ような気がする)。

35年前の「ペトリューシュカ」。父が買ってきたバーンスタインの1枚は、1週間の間、私には不可解な音の、断片的な集まりにすぎなかった。それがある日ある瞬間を境に、はっきりと旋律の重なりが意味をもって迫ってきた。あの時の驚きと喜びを今でもはっきりと覚えている。脳の中では何が起こっていたのだろう?ごろごろ転がっていたあまたの石ころから突然光が四方に広がり、脳は狂喜した。
「お父さん、判ったよ」と興奮して語った私を見る父の優しい目を思い出す。

映画を観たり、本を読んだり、様々な芸術作品を鑑賞する行動は、すべてあのペトリューシュカのような衝撃を再び脳に与えたいが為かもしれない。一生のうち、そんな幸せな出会いをいくつ経験できるだろう。

あの瞬間、世の中の風景が変わったような気がした。