2009年11月29日日曜日

11月29日 平曲鑑賞会へ

11月28日 義母と萩原へ

11月23日 真清田神社新嘗祭

11月20日、21日  熱海へ

I先生の熱海の別荘に女4人招かれてお出かけ。
伊東まで足を伸ばして、駅から川沿いに歩いて東海館へ。
その後、先生が伊東一美味しいという寿司屋へ。

11月16日 義母と京都へ

昨日と今日と、2日連続の遠出なので心配したが、義母は元気。

バス1日ツアーに参加して京都永観堂禅林寺と南禅寺の紅葉狩り。
真盛りとはいえないけど、赤60.黄20、緑20といったところ。
昨年の大原に比べると少し残念。
でも、義母はとても喜んでくれた。
私が写真を撮ってあげると、必ず義母も私を撮ろうとする。
とことん甘えることができない人なのだ。
自分が人にしてあげることを喜びとするタイプなので、人のお世話になるのに慣れていない。
しきりに申し訳ない、とかお世話になります、と言うのが痛々しくて、かえって私は辛い。

財布を2回なくして(1回はトイレに置き忘れ、もう一回は買い物袋の下から出てくる)、途中のトイレでズボンを前後ろ反対に穿いているのを発見して驚かされた意外は、何事もなく無事帰宅。
美しい風景を見て楽しめるうちは、あちこち連れて行ってあげたい。

11月15日 義母の詩吟大会に付き添い

朝7時にB野さんに着付け手伝いに来ていただくが、義母の小物が見つからない。
私の着物バッグや伊達締め、着物ベルトなどを使ってもらう。
着物で1日過ごすしてもらうのは不安だが、母の出番が終ったらすぐに帰らせて貰うつもり。

鶴舞の市公会堂へ。詩吟のメンバーは年配の人ばかりだが、時々舞台に小学生くらいの子らが着物姿で出て、おじいちゃんおばあちゃんたちに混じって詩を吟じる。その姿の可愛いこと。

義母の出番は2回。どちらも大勢で出るのであまり心配はしない。周りの、事情を知ってくださる方々が
うまく誘導して面倒を見てくださるのがありがたい。
義母は口パクのところもありそうだが、出番を終えると満足そうな顔で戻ってきてくれて、ほっとする。

帰ってから着物や帯、小物を干して買い物に行く。その間、義母が帯や小物を畳んで片付けてしまった。湿り気を取る為、しばらく干しておくから触らないで、と何度も言っておいたが無理だった。
貸した小物類はどこかへ片付けてしまって、見つからない。力が抜けた。
一体どこへ仕舞いこむのだろう?本当に不思議。

11月7日

名古屋の友人2人と菰野町にある手打ち蕎麦の店「菊井」へ。
古い店構え。内装趣向が凝らしてあり楽しい。器も吟味してある。
蕎麦の味もいける。
店を出てから黄色のコスモスが咲き乱れる畑で写真を撮る。
その後池田満寿夫の般若心経陶板がてんじしてあるパラミタミュジアムへ。
薔薇の喫茶店で紅茶と手作りケーキをいただき、岐路に着く。
N見さん、T口さん、今日はどうもありがとう。

2009年11月3日火曜日

11月3日

母の詩吟の発表会。息子にお世話をお願いして、私たちは娘のピアノ発表会へ。

リハで思いっきりこけて、何度もつまずき、途中で弾けなくなってしまった。
先生に教えて貰って弾き始めるも、再度間違えてストップ。ついに止められてしまった。
真っ青。
生きた心地がしなかった。

本人もさぞ辛かったと思うが、本番は練習より上手に弾けて、びっくり。
こんなに心臓の強い子だとは我が子ながら知らなかった。
奇跡か?
しかし、私は3年は寿命が縮まった。こんな恐ろしくスリリングな思いをしたのは初めて。

終了後、スパイラルタワーでケーキを食べて娘を帰宅させ、私とつれあいはヴェルディの歌劇「アイーダ」鑑賞。事前に予習してあったので、音楽も心地よく、あらすじもよく分かり、たっぷり楽しめた。

2009年11月1日日曜日

11月1日

今日は朝9時から月例祭で、母を連れて行く。10時半帰宅。

午後、母の部屋に行くと、付け下げの着物が無造作に畳んであり、上に下着や洋服などが乗せてある。
今月15日に詩吟の会で着るため出したのだろうが、もうそのことは忘れていて、
「誰かが着物を出しておいたものだから・・・」とおっしゃる。
そのままではほこりをかぶるし、へんな畳み皺がついてしまうから、と母を説得して畳みなおし、2階にしまってくる。
 あんなに着物を大切にする人だったのに、畳み方も忘れていた。
会話も、何が言いたいのか理解に苦しむことがだんだん増えてきた。

3時から、娘と簡単アップルパイを作り、母と3人でティータイム。
甘い物を食べる時の母の嬉しそうな顔を見るのは、心が休まる。

2009年10月28日水曜日

10月28日

 母が詩吟に出かける前、ハンドバッグを2つも持ってきたので、中を見せてもらうとパンスト、靴下、タオル、ブラジャー、歯磨きチューブが出てきた。これはいらないよね、もしカバンから間違えて出してしまったら、皆さんびっくりされるから、置いて行こうね、と言うと、ブラジャーは置いていくことに同意したが、ストッキングと靴下は「これはいいでしょ」と持って行こうとする。ま、いいや。
 次の瞬間、びっくりした。ズボンを2本重ねてはいていた。おまけに下にはいたズボンが少し長めなので裾からはみ出している。
 「お母さん、ズボンは1本にしようね、どちらか脱いでくれる?」と言うとすごく嫌そうな様子で「いいじゃないの、私の好きにさせて!」と。
 ま、いいか。
 もっとすごく変なことをするようになったら、そして言うことを聞いてくれなくなったら、どうするべ?

2009年10月27日火曜日

10月27日

今日は突然ミニデイサービスが休みになってしまったので、仕事途中の昼休み、急いで帰宅して母とお昼ご飯。とてもよいお天気で暖かいので、母を連れてきてコンビニ弁当を買って公園で食べようかと一瞬思ったが、風が強いので断念する。結局時間がないので近所のSGnoうどん屋さんへ入る。パンよりもこの方が母は喜んでくれる。 私も楽。

4時半に仕事から帰って、すぐ母を連れてHSGwa歯科へ。帰宅後今度は娘を連れてKM耳鼻咽喉科へ。
きょうは家庭教師がない日なので、のんびりできるはずだったが、なんとも慌しい1日。

昨日から朝晩母の湿疹にマイザーを塗っている。母は、痒みがなくなったと言っている。効き目が現れてきたのかな。足4、腕2、肩1箇所。

ドラムの練習に、オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ  ビートルズの楽譜をもらったので、今日初めて練習してみた。足が思うようについてこないし、ドラム楽譜に慣れていないので読み取るのに、楽譜を見っぱなし。
後3日で暗譜しなくては。

2009年10月26日月曜日

10月26日

朝9時にIMIse心療センターへ。母を連れずに1人で行く。連れて行かなくてもいいと、もっと早く教えて貰いたかった。不親切な病院スタッフ。
MZno医師は相変わらずやる気のなさそうな、めんどくさそうな、言葉を発するのももったいないという雰囲気で、私の話を一通り聞くだけで、次の予定は・・・。でお終い。
薬をもらうだけに行っているようなものだ。病院を変えようかな。

帰宅後、すぐ母を連れてYNda皮膚科へ。今日は空いていて助かった。母の体に増えてきた発疹は、老人性の物で、皮膚が乾燥してなるらしい。心配はいらないと聞いてほっとする。マイザーを3本もらって帰る。

すぐに母と百貨店へ行って、早速湯たんぽを買う。ベビー用の2重になったものを購入。今年は電気毛布はやめようね、皮膚が乾燥して痒くなったら困るから。

すずの屋で豆腐田楽を食べて帰宅。
3時のおやつは百貨店の九州展で買ったかるかん。美味しかったね。

10月22日

市役所主催の、認知症学習会に参加。1時から4時。

入浴しても、体を洗わない場合、洗ってもらうのを嫌がる場合の対処法・・・私の体をまず母に洗ってもらって、お返しね、と母の体を洗わせてもらう。
入浴剤(バブルバス)の中で体をこすってもらって、後は全部流してしまう。

なるほど。いつもいい知恵を貸してもらえる。

10月21日

義弟が久しぶりに母のところに来てくれた。
母は喜んでいて、私もほっとする。
しかし、昼過ぎに「お母さん、kjiさんが来て下さってよかったね!」と言うと、「え?」と怪訝な様子。
嫌な予感がして、「お母さん、今日朝来てくださったのは誰だったの?」と尋ねると、あれは萩原の弟よ、と答える。
おそらく息子本人を目の前に話しているときは、息子と自覚があっても、数時間経つと忘れてしまうのだろう。それとも・・・もう息子の顔もわからないのだろうか。私たち家族は毎日顔をあわせているが、1ヶ月に1~2回しか見ないと忘れてしまうのか?ショックだった。

10月15日

PTA社会見学の日。母が1人になる時間ができてしまうので断念。
朝電話でキャンセル。

10月3,4日

岡山へ御本部団参する母のお供。

2009年9月24日木曜日

2009年8月29日土曜日

奥能登へ

草津温泉から帰って、翌日は5時半に起きて奥能登、珠洲市へ。
親戚の不幸で、お葬式に参列するため。
亡くなった奥様も、そしてご主人も、娘さんも、とても素敵な方たちなので、是非彼らが生まれ育った地を見せていただきたかった。
こんな辛いことで、それが実現してしまうのは悲しいのだが、想像した以上に心安らぐ素敵な場所だった。

それなのに、かの地は若者の流出と産業の不足に喘いでいるという。
人々が自らの生まれ育った地に誇りをもって、安心して生きていけるようにするのは政治の責任だが、それが破壊される方向へ数十年来転がり続けている。

今日は投票日。
奥能登で出会った純朴な人情味溢れた人たちが、選挙の話をして、今度は変えなくては、と口々に言うのを聞くと、確かに今回、情勢は動くかもしれない、と思う。
しかし、有権者がどこまで監視の目を持ち続け、要求し続けるか、で改革の質は大きく変わる。選挙だけで終わらせてはならない。

草津夏期国際音楽フェスティバル

22日、23日と草津温泉へ。
毎年恒例の草津国際音楽祭を聴くためだが、つれあいの仕事の都合で1泊しかできないのが残念。
今回聴けたのは「ヨーゼフ・ハイドンの室内楽」。
耳に心地よい、極上のBGM。皇帝の朝食の際の音楽として作曲されたという曲の数々。
信じられない曲数を生み出しながら、どれ一つとして似ていない。
しかも、名曲ぞろい。
ハイドンは天才です。とは事務局長のお言葉。

ロビーでお土産を買うのも音楽祭のお楽しみの一つ。
今年も記念のワインとオリーブオイルを買う。記念のTシャツも。

夜は現地集合した仲間たちと飲みに、ナウ・リゾートホテルへ。
そうそう、ナウ・リゾートの温泉に初めて入ったのだが、真湯と書いた浴槽があって、友達と、せっかく温泉にはいったんだから、真湯で成分を流しちゃったらもったいないね、とそのまま出てきたのだが、右足のむこうずねが痒くなって温泉負けしてしまった。
湯畑の湯よりきついというのは本当だった。
今日は29日だが、まだ痒くて、書き崩した痕が残っている。

お泊りは今年も「田島屋旅館」さん。
とても古くて趣のある宿。
土産物屋さんも営んでみえて、そこの七味唐辛子と各種漬物、温泉饅頭がとてもおいしい。

翌日は「嫗仙の滝」へ足をのばす。
宿から滝入口まで40分ほど歩く。入口から滝壺まで20分、ずっと下り続きで、膝が痛まないか心配になるがなんとか持つ。
入口の杖を借りてきて正解だった。

滝は写真の通り、岩肌が赤く染まっていて美しい。
水に温泉の成分が含まれているからという。
帰りは登りだが、膝には登りの方が楽。
痛めていた膝を悪化させることなく往復できてほっとする。

2009年8月19日水曜日

映画「湖のほとりで」

イタリア映画
アンドレア・モライヨーリ監督 サンドロ・ペトラーリア脚本

「真実は深く そして美しく 眠っている」

可愛らしい子供が誘拐されたか、というおぞましい始まりから、物事は良くない方向へひたすら転がる。
殺人が連想させる人の心の不可解さとは裏腹に、風景はあくまで静かで美しい。
謎解きのようであって、実は人の心の弱さ、強さ、もろさ、したたかさが描かれる。そして最後に美しさと悲しさと安らぎが泉のように湧き出でてくる。

巧みなストーリー展開にひきこまれ、世界が反転して優しい気持ちになったところで、ああ、心を掴まれちゃった、と気づく。

魅力的な映画との幸せな出会いでした。

ドラム超初心者

ポカーロタイプのドラムスティックを買って、はや12日。毎日30分、ぶっ続けで電話帳をメトロノームに合わせて叩いている。

最初の3日間ほどはわけもわからず闇雲に叩くのみ。左手が酷くぶれることに気づいて、いろいろ工夫していたら、力を抜くことでぶれなくなってきた。肘や手首に余分な力がかからなくなってきたような気がする。

それにしても、リズムを取るのがこんなに難しいとは知らなかった。自分の体の中にリズムを取り込もうと体を揺らすと、その余分な動きが手に伝わって、ずれる。かといって直立不動で叩いていると、体がむずむずしておかしなエコーが生じ、ずれる。

たかだか1週間ちょっとで何がどうなるわけではなかろうが、これからの道のりを考えると楽しくも恐ろしい。

肩凝った。幸せ。

2009年8月18日火曜日

「差別と日本人」 野中広務 辛淑玉

書物を紐解いて、自らの無知を思い知らされる。新しい知識やものの見方、考え方に触れて幸せな気分になるのが読書の大きな楽しみだが、今回は違う。この書を一気に読み終え、ため息とともに閉じたとき、自分の無知と慢心を呪いたくなった。当事者でなければ語れないことが鋭くも正鵠を得た言葉でストレートにとびこんでくる。

私は50に手が届くまで生きていて、日本の社会の暗部や差別的な考え方など一通り以上の興味を持って生きてきたと思い込んでいた。 部落差別は、もう終っていることにしなければ終らないと思っていた。私は差別者としての当事者、無自覚な差別者の1人だったと気づかされた。
無知が人を傷つける。私もその1人にはなりたくない。知らなければならないことはまだまだたくさんある。

もう一つの誤認。
私は今まで、政治は野党を育てることでしか変わらないと思っていた。野中さんのような政治家が与党に存在したとは。与党内の筋の通った勢力を支えることで日本の政治が変わっていく可能性があると認めざるを得ない。しかし、与党内に野中さんと志を同じくする人はどれだけいるのだろうか? ?

また、野中さんご自身が認めていらっしゃるように、彼は法案を通すために強い毒をもつ餌を抱き合わせていることが多い。彼が努力して推し進めた法案の数々は今後も功罪を検証して行かねばならないだろう。彼は共産党を嫌う理由を述べてはいないが、妥協を拒み、あるべき最高のものしか認めない所謂「何でも反対」の共産党の姿勢が、野中さんのように一歩でも進むために他で妥協してじりじり前進するやり方とは相容れないからではないだろうか。しかし、私たちのような素人に野中氏の法案の何が前進で、何が毒なのかを知らせるために必要な知識を提供する役割は必要。

骨太の2人の力強さと、人としての魅力と、強さゆえの寂しさを知って、静かな勇気が湧いてきた。
つれあいにも一読を薦めよう。

2009年8月7日金曜日

ドラムスクール初日

先々週、ドラムの体験教室を訪問した。
初めて間近に見るドラムセット。
座ると胸が高鳴った。
上手くなるかどうかは努力次第。
こんな気持ちになるなら、もう進むしかないじゃありませんか。
あと2週間で50に手が届いてしまう私だからこそ、今、全く新しいことに挑戦してみたい。
どこまでたどり着けるか、とにかく楽しもう。

2009年7月23日木曜日

脳と酸素

父は、自宅からがんセンターに戻って程なく鼻からの酸素吸入を欠かせないようになった。そして、同時に、無口になった
トイレに行くのもゆっくりと休み休みだったのが、次第に立てなくなり、ベッドの上に体を起こすのさえ辛そうだった。話をすると呼吸が荒くなる。更に進むと、物を考えるだけで呼吸が苦しくなるようだった。
脳は大量に酸素を消費すると聞いていたが、父をみていて、それがほんとうによくわかった。

研究者で、思考するのが商売のような人なのに、どんなに辛かったことだろう。

私がしゃべりかける声、それを聞くだけで父の脳は働き始め、呼吸が苦しくなる。そんな時父は、もうやめなさい、苦しいのだ、と目で合図する。

それに気づいてから、私はお喋りもしないで、ただ父の傍に座っていることにした。
そんな私を見て、「帰れ」。
子供たちもいるのだから、もう帰れ。お前はここにいても何もならんぞ、と目で訴える。

一宮の私の家から病院まで約1時間と少し。 それがとても遠く感じた。

あんな状態になっても、父は死と戦い続けた。諦めることを拒み、細く細く細く、命を燃やし続けた。
父は大変な精神力を持っていたと、改めて知った。

がんセンターに再入院してから1ヶ月。別れの時が近づいていた。

2009年7月21日火曜日

母のこと

久しぶりに母の事を書こう。
半年前、自分の脳が壊れ始めていることを自覚してしまう今が、母にとって一番辛い時期なのでは、と思ったが、その状態は今も続いている。しかも、壊れ方に加速度がついてきたように感じる。

先日、青ざめて思いつめた顔で母はやってくると、孫たちに酷い目に合わされたと私に訴えた。台所の天袋に入れてあった品物がみな流し台に下ろされていたという。あの子たちには憎まれ口一つ言ったことはないし、嫌がられることなど何もしてこなかったのに、どうして私はこんな辛い目に遭わせられなければならないの?と涙を溜めて訴える。声は震え、悔しさと憤りのやり場がない様子である。

私は、「本当にひどい子たちですね、お母さんごめんなさい。よく言って聞かせますから。」と言うべきなのかもしれない。しかし、私にはそれが言えなかった。

「あの子達はお母さんの事が大好きで、とても大切に思っていますよ、お母さんを困らせるようなことはしませんから、安心してくださいね。お兄ちゃんは大学から帰ってすぐ夕食をかき込んで、バイトへ走って行ったのをお母さんも一緒に見ていたでしょ?妹は風邪を引いて今日一日こちらの2階で寝ていたではありませんか。二人ともそんなことをする状況にはありませんでしたよ。 」
そう言うと、母はきつい目をして私を見つめ、「なら誰がやったというの?」と私に問う。

私は言うべきではなかったことを言ってしまった。すなわち、「誰も、お母さんを苛めたり悪さをしたりすることはないのよ。家族皆お母さんの事が大好きなの。誰も悪くないの。だから、誰がやったなんて考えるのは止しましょうね。昨日見つかった化粧品のポーチも、お兄ちゃんが隠したとお母さんはずっと言っていたけど、今どこにありますか?覚えていないでしょ?自分でやったことを覚えていないのだから、しかたがないことなのよ」と
母は、ぼうっと私の顔を眺めていたが、よろよろと腰を上げ、小さな声で「わかりました」と言うと、部屋を出て行った。

15分ほど後に、母が廊下の壁で体を支えながらやってくると、涙をいっぱい溜めた目で「ごめんなさい。私は自分がこんなに物忘れが酷くなっているとは今まで気が付かなかったの。ごめんなさい。これからは本当にあなたに苦労をかけるわね」とようやくそれだけ言うと、ハンカチで目を押えた。私は母の肩を抱いて「謝らないで、お母さん、私こそ、しっかりと支えてあげられなくてごめんなさい」と言った。「こんなことになるなんて、こんなことになるなんて」とつぶやく母に、私は「順番ですよ、私やあなたの息子も、いずれ同じ路を歩くのですから」とかろうじて答えるしかなかった。
慈しみ、可愛がった孫たちに物を隠されたり捨てられたり嫌がらせされると誤解して悲しむ心。脳が急速に壊れ始めていると自覚してしまう恐怖。私が母の立場なら、耐えられるだろうか?

2009年7月19日日曜日

ストレス溜まっていますか?

7月19日(土)
久しぶりに名古屋の友人とランチ。約束の時間を30分も間違えて、しかも携帯を家に忘れてくるという大失態。申し訳ないことをしてしまった。

場所は瑞穂区のフレンチレストラン「ビストロラパン」。量がたっぷり多いので、お値打ち感がある。
2千円のすべて食べるランチ。でも、ややお味に繊細さが欠けるかな。

落ち着いた雰囲気で楽しくお喋りできて幸せ、なのだが、1人でなにやらしゃべりまくっていたような・・・。
やはりストレスを解消する為に、早くドラム教室に電話しよう。

2009年7月7日火曜日

胃腸風邪

6月23日(火)から28日(日) 家族3人討ち死に。娘は期末テスト初日から最終日までアウト。

母とメロン狩り

6月20日(土)

映画「真夏のオリオン」

6月15日(月)

アルマ21世紀コンサート

6月6日(土)
娘のピアノの先生が出演されるので、親子3人で聴かせていただく。

ずっと記録を書いていなかったので、今日7月7日までは項目だけ。

2009年6月6日土曜日

ラ・チェネレントラ

6月5日
 今季METの最終演目。「ラ・チェネレントラ」
若手成長株のガランチャさんが出る。しかもはまり役でありながらしばらく封印するということなのでこれは見逃せませんわ。

「若者が100%実力を発揮した清々しさ」を感じました。ガランチャさんも、ブラウンリーさんも、素晴しい歌声。難しそうなところも楽々歌っているよう。ブラウンリーさんの容姿や背の低さが気になったのは最初だけ。彼の圧倒的な歌声の魅力にうっとり。脇を固める方々もお見事。何より出演者たちがこの作品のできに満足している様子が伺える内容でした。もう一度観たいです。

2009年6月1日月曜日

ピンホール写真展

5月30日
ここ数年、毎年楽しませて貰っているピンホール写真展。 今年も伏見のナディアパークまで見に行ってきた。

カラー写真が年々増えてきているようだ。歪んでいたりぼやけていたり、定型でない面白さが魅力。また、工夫を凝らした手作りカメラの数々も楽しい。

今年気に入ったのは、ながーいカメラ。ホールは1つだが、長い箱の内部に印画紙がぺたぺたアシンメトリーに貼ってあり、1つの細長い風景がつぎはぎで表現されている。作者の製作メモが置いてあり、自由に見られるようになっていて、思わず全部読んでしまった。作者のココロを追体験できてなんだか嬉しい。

パステルでケーキセットをいただいて私は帰宅。
つれあいはその後コンサート会場へ。

2009年5月23日土曜日

生と死の境

父の病室から広い空が見える。
はるかかなたに飛行機の銀色の光の点が見え、それがある地点に来ると、そこからまっすぐ、がんセンターに向かって進んでくる。大きな翼が足を出し、着陸態勢になって病院上空を通り過ぎて行く。
この風景を、最初の頃は興味深く見ていたのだが、次第に残酷に思えるようになった。

死界と現世を結ぶメッセンジャーのように見えるのだ。
飛行機の銀の点が近づくのを見るのは、死の世界の一部を見ているようで、心がざわついた。
父はどう感じていたのだろうか?

市民病院からがんセンターへの転院は意外なほど早かった。大動脈に癌が接しているということで、手術は無理なので照射が始まった。照射で癌が小さくなるのが先か、大動脈が浸潤され、破壊されるのが先か?という綱渡りの状態だった。

父は昼間はじっとして、たまに話をして、喉を潤すためのうがいをして、(飲み込めなかった)静かに過ごしたが夜10時ごろになると呼吸困難の発作を起こすようになった。大きくなりすぎた癌が気管支を圧迫して、息ができなくなる。

父の呼吸が次第に浅く、頻繁になる。ナースコールを押せ、と目で合図する。看護士さんが駆けつける。酸素吸入。頑張って、死んではだめ。がんばって!ベッドの上でのたうつ父の姿を、私は両手を合わせて見守り、祈り、叫び続けるしかなかった。
毎晩、死と隣り合わせの日々だった。そんな状態が2週間くらい続いただろうか。

父の精神力はたいしたものだった。看護士のAさんは「こんな患者さんは初めてです。普通なら、精神的に参って、わがままを言ったり、無茶なことを言ったりして、困らせるものなのに、じっと静かに闘っていらっしゃる。」といってくださった。私たちにも父は愚痴一つこぼさず、辛いとも言わず、1人で耐えていた。私はそんな父の体の癌があると思われるところを手のひらをあてて温めることしかできなかった。

父はこの困難をとりあえず乗り越えることができた。
癌が照射のおかげで小さくなり始めたのだ。 照射が間に合ってよかった、と私たちは安堵した。が、それは新たな苦しみの始まりでもあった。そのことに気づくのに1ヶ月もかからなかった。

癌が小さくなったことで夜半の呼吸困難もなくなり、少しずつ液体なら呑みこめるようになってきた。
並みの精神なら、持ちこたえることはできなかったでしょう、すごい患者さんです、と言われた。

父は、私たちのために、なんとか持ちこたえてくれた。

2009年5月18日月曜日

シネマ歌舞伎「刺青奇偶」

 久しぶりに、何も用事のない日曜日。
「何かある?」「何も。」「じゃあ、映画、行こうか?」
運良く観たいと思っていたシネマ歌舞伎「刺青奇偶」が前日からはじまったばかり。

地味な作品だが、なんだろう、この張り詰めた緊張感。玉三郎と勘三郎、この2人の充実した演技、台詞回し、存在感。舞台の上に立つだけでタメイキがでそうなくらい深い。

冒頭のシーン、玉三郎が放心した様子で海を眺める。その佇まい。科白もなく立ち尽くす姿はこの作品の全てを既に物語っている。感じてくださいよ、静かに包み込むように作品の心をあじわってくださいよ、と。

他の脇役も見事。
大切に、大切に、練り上げられ、作られた「こころ」そのもの。
観客も、疎かには観ることはできない。

2009年5月15日金曜日

宣告を受けた日

6年前の9月に私の婚家先で法事があり、両親が出席してくれた。その数ヶ月前から、父が食事の時、食道に違和感を感じると訴えていて、だから法事のお食事はあまり食べられないよ、と聞かされていた。病院で食道や胃を検査してもらっても何も異常がないのだが、なぜ食べられないのだろう?と言う父に、精密検査したほうがいいんじゃないの?と口だけで心配する私だった。

その後、ますます食が細くなり、塊を飲み込めなくなってきて、体重が激減したこともあって緑市民病院で検査入院。悪い予感がして病院へ駆けつけると、青ざめた母の顔。

「○○ちゃん、大変なことになっちゃった」
その母の一言で、私は悟った。
「肺の癌だって、悪性だって、もうダメかもしれない。」
母は揺れる目で搾り出すように言った。

父は1ヶ月前より更に痩せ、険しい顔になっていた。
あまりに急激な体力の衰えと水分しか飲み込めなくなったことのショックで、既に死期を悟っていた。

弟と姉と母と私。
どうする?何ができる?

病院からの帰り道、秋の夕暮れは 大きすぎる夕日と、赤黒く染まった大きな雲の塊。
何も起きていなければ、美しい空だと見とれるだけだっただろう。
市民病院から鳴海駅まで歩きながら、私は色と形を刻々と変える空を眺めて、天が 父の病は治らないのだと示しているように思えて仕方がなかった。
治るかもしれない、まだ間に合うかもしれない。
がんセンターに移って最新の治療を受けることができれば、もともと頑強な父のこと、 復活して元気になってくれるかもしれない、と祈るような気持ちで空を仰ぐと、 美しすぎる空が、運命には逆らえないのだよ、と大きな力をあらわしていた。

あの時、希望を持とうと、何か良い兆しを得ようとしたが、無理だった。
私は父の死を予感し、でも、できる限りの事をしようと決意した。

2009年5月8日金曜日

救急車

救急車のサイレンを聞くと、いつも胸が痛くなった。
次第に近づいてきて、側を通過していく。音が渦を残して去っていく。その中に自分が乗っているような気がして、父の傍に座り、簡易ベッドを力いっぱい掴んでいた手の感覚を思い出して、涙が出た。
そんなことの繰り返しだったが、最近ーこの1年半くらいは、随分感じ方が弱くなったと思う。
サイレンを聞いても、涙は出なくなった。
お父さんは、もう届かないところへ行ったのだ、と静かに思う。

再入院するのに、必ず救急車をつかってください、とお医者に言われた。私は救急車に乗るのは初めてだった。
小さなベッドに父は縛り付けられ、救急車は発進。その瞬間、上下に左右に、ベッドが揺れ始めた。
こんなに揺れるの?私と母は必死で父のベッドに手をかけた。が、そんなことぐらいで揺れは収まらない。癌が肩の骨に転移して、じっとしていても痛い状態なのに、まるで遊園地のジェットコースターみたいな激しい揺れ。サイレンを鳴らす以上、早く走らなければいけないのか、スピードを上げると父の体がベッドの上を何度もバウンドした。
痛みで唸り声を上げ続ける父。 15分ほどの距離がとても長く感じた。
どうして病人を乗せる救急車が、こんなにひどい構造になっているのか、理解に苦しむ。あれでは怪我や病気の重篤な人は状態を酷くしてしまう。

父の乗った救急車だけの問題なのか、それとも救急車はみな似たり寄ったりの作りなのか、わからないが、せめて揺れを少なくするようにゆっくり走ってほしかった。病院に着いてから、父は、癌になって初めて周囲に怒りを爆発させた。よほど辛かったのだろう。
あの時、もっとゆっくり走って!となぜ私も母も言えなかったのだろう?
悔いが残る。

2009年5月7日木曜日

父の命日

明日は、5月8日。5年前、77歳で亡くなった父の命日。
肺腺癌だった。

予感、というのは確かにあると思った。

あの日、あと1週間もつかどうか、と言われていたので必ず誰かが父の側に付いていることにしていたのだった。

病院に泊まって、母と交代して家に帰ったのが午前中だったと記憶している。夕刻、母が体調不良を訴えて家に帰ったと姉から聞いたとき、黒い不安が胸に広がってきて、いてもたってもいられなくなった。

すぐに着替えて、病院へ向かった。あのときの胸の動機、今も覚えている。名古屋駅で、私は走り出していた。地下鉄のホームまで、人とぶつかりそうになりながら全力で走った。走りながら、涙が出た。待ってよ、まだ今死ぬっていうわけじゃないのに、どうしてこんなに涙が出るのだろう?やめてよ、まるで本当に今、死んでしまうみたいじゃない。そんなことをつぶやきながら。

自由が丘の駅からがんセンターまで、坂道を12分。走った。あえぎながら。エレベータを降りて父の病室へ、看護婦さんたちがあわただしく立ち動いていた。

「ああ、いらっしゃった、今お母様にご連絡差し上げたところです。早く行ってあげて。ほんの5分前まで意識があったのに、昏睡状態になられました。」
「声をかけてあげてください。きっと聞こえますから」

 私は上がった息で、父の手を握り、耳元で、何を言ったのだろう?
今まで、本当にありがとう、とか 高校生の時一緒について来てくれたロックコンサート、楽しかったね、とか、いっぱいいろんなことを、この世の楽しいこと、美しいことを見せてくれてありがとう、とか、ああ、 何を話したのだろう?あなたの生き方が好きだったよ、とか。いろいろあったけど、お父さんの娘で本当によかった、とか・・・・。何も、何も、言い尽くせなかった。もっともっと、早く言っておけば良かった。こんなになってからしか、言えないなんて。

でも、混乱した哀しみと絶望の渦の中で、私は父の臨終の場に居合わせる事ができて、不思議な安堵も感じていた。

あの日の「予感」は、父が私にくれた最後のプレゼントだと思っている。

2009年5月3日日曜日

「恋文の技術」 森見登美彦

う~ん。辛いなあ。
流行作家の作品なら何でも読みたいという性格ではないので、読了後、時間を無駄にした気分を
苦く味わっている。
でも。これをいいという人もいるのだろうな。
私は前作の「有頂天家族」の方が数段楽しめた。

昨日は歓送迎会。あまり飲んでいないのだが、今朝起きるのが辛かった。
もう若くないと言うことね。

2009年4月27日月曜日

「有頂天家族」 森見登美彦

京都の町は作家の想像力をふくらませる、宝箱みたい。
まともな生き物がまるで出てこないのだが、皆魅力的。
ファンタジーの新しい世界。

2009年4月26日日曜日

中川昌三さんのフルート

目黒のBLUES ALLEY JAPAN へ。
大野雄二&スペシャルフレンズ3days
今日はボサノバのソニア・ローザさんをフューチャーしたライブ。
始まる前からわくわくどきどき。
ソニアさんの可愛らしさ、魅力的な歌声に魅了されました。
中川昌三さんのフルート、素敵でした。
石塚まみさんとのデュオ、フォンチのブラジル音楽、そしてボサノバ、
中川昌三さんのフルートはいつも透明な高い青空を感じさせてくれます。
ふわふわ気分で一宮まで帰ってきました。
こういうのを魂の贅沢っていうんです。

2009年4月20日月曜日

陽春花形歌舞伎 雷神不動北山櫻

家を出ようと言う時間になって、母が「足が痛いから行けない」と言う。
駅まで自転車で行けば、後はエスカレーターとエレベーターを極力利用し、名古屋駅からタクシーで御園座に行けばいいから、頑張って行こうよ、と誘うが、自信がないから、と仰る。
すぐ病院へ行くほどでもなさそうで、じっとしていると痛くないらしい。歩く時少し足を引きずっているので、やはり無理をさせてはいけない、と諦める。

それからがたいへん。チケットがもったいないのであちこちにメールしたり電話したり。
ようやく「ひ」のところでHさんが来てくださることになり、ほっとする。

さて、市川海老蔵を生で観る初めての舞台。海老蔵さまは本当に華がある。姿の美しさ、顔立ちの美しさ、仕草も洗練されている。1人で5役の演じ分けも、それぞれの個性を発揮して見事。1人の花形歌舞伎役者の発散するオーラを堪能させていただいた。

一つ、難を言わせてもらうと(海老さまゴメンナサイ)
声。くぐもったような声で、今ひとつ響に不足が。お風邪でも召していらっしゃったのか、いつもあの声なのか、私にはわからないけど、少々残念。

歌舞伎は動と静のコントラストに特徴のある芸術だとつくづく思う。最近オペラを見ることが多かったので、余計感じたのかもしれないが、見得を切るときの静止は一枚の絵として観客にそのシーンを強烈にアピールする。動きの激しい時でも、動の中に静を感じる。

オペラはストーリーが大切で、一部分だけ抜粋して演じることは殆どないと思うのだが、歌舞伎は名シーンだけ、一幕だけの上演がよく行われる。これは、ストーリーよりも、絵として切り取って鑑賞し、楽しむ風が強いせいではないか。

など素人考えでいろいろ感じた1日。おもしろさ、楽しさ、スペクタクル、笑い、お色気、驚き、ありとあらゆるお楽しみ要素満載で、贅沢な演目だった。

2009年4月12日日曜日

オペレッタ映画 「こうもり」

4月10日(金)
名古屋芸術創造センター
METを見慣れた目には画面のざらざらが気になるが、「こうもり」だもの、許しちゃう。

聴きなれた前奏曲、胸がどきどきしてくる。舞台をそのまま撮影したのでなく、あくまで映画として撮ったものなので、演出もきめ細かく、セリフも気が利いている。舞台を観た時はもっとセリフが大まかだったように思う。しかし、舞台風味付け。実写でござい、でないから、安心して観ることができた。

ウイーンフィル、カール・ベーム、ウイーンフィル、ウイーン国立歌劇場

ロザリンデ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ
アイゼンシュタイン:エバハルト・ヴェヒター
アデーレ:レナーテ・ホルム
オルロフスキー:ヴォルフガング・ヴィントガッセン

オルロフスキー女性のアルトか男性のカウンターテナーが演じるものしか観たことがなかったが、今回はテノールの若くない歌手。このほうがわざとらしくなくて私は好き。

体調が優れなかったので、途中数度寝てしまう。そのつどすぐ目を覚ますが、
もったいない。

2009年4月7日火曜日

中学入学式

しーん。
きれいに整列して子供たちが入場してくる。私語を発する子等は1人もいない。1年生は緊張してぴーんと張り詰めた空気。2年、3年生も、驚くほど静かに入場し、着席する。さすが、中学校は小学校とは違うな、と感心する一方、子供たちの猫背、生気のない表情、暗い雰囲気が気になる。

静かな入学式のあと、始業式にも参列してよかったので、そのまま会場に残る。親たちの殆どは外へ出て、残っていた親は20人くらいか。

始業式、やはり子供たちは静かに入場し、静かに着席。突然先生の怒声。「頭を動かすな!」
「フラフラするな!」
にらみを利かして生徒たちの側を威嚇して歩く先生たちの厳しい顔、顔、顔。

なるほど、静かなのは、こういうわけだったのか。

気の小さい、新一年生の娘はさぞビビっているだろう。気の小さい私も、あの怒声には心臓がどきどきする。人の尊厳の敏感なところをぴりぴり刺激する怒鳴り声。自分が叱られているわけではないのに、胸が苦しくなる。私が中学生だった頃と学校のやり方は同じではないか。

このような「指導」でなければ、子供たちを静かにさせられないのだろうか。
そう質問すれば、おそらく「もちろんその通り、こうすることでしか今の子供たちを大人しくさせることはできません」と答えが返ってくるだろう。しかし、本当にそうなのだろうか?脅しに頼らず、子供たちの意識を高める方法は本当にないと断言できるのだろうか?世界の、あらゆる国で、このような方法による中等教育が行われているのだろうか?

脅しをかけて、怒鳴りつけて、押さえつけることは調教であって、教育ではない。
ただ、騒がしく収集が付かなくなるよりはマシなので、致し方なく「調教」せざるを得ないのだろう。先生方も、あんな声を出したくて出しているのではない、と信じたい。

しかし、先生方には、「調教」でいいのだ、とそこで思考をストップしてほしくない。大人しくきちんと人の話が聴ける子供たちもいて、その子等の心を傷つけていることから目を背けないでほしい。そして、調教でなく、教育の方法を追及することを忘れないでほしい。

2009年4月5日日曜日

心を育てる音楽とは?

なぜ合唱を子供たちに勧めたのか。

競争、競争で人と比べることでしか存在の意味を確かめられない今の教育のあり方に疑問を持っていたから、人の声を聴いて、協調することで自己の、そして全体の成長を望む合唱は、オアシスのように感じた。

進学するための勉強をする場所になってしまっている学校では得られない、進学の役に立たない教養を身につけることのできる場と思ったから。

だから子供たちが合唱の魅力に盗り付かれた時、わたしは彼らの感性を歓迎し、大いに応援してきた。

しかし、しかし、しかし!

今のあの子達は周りの声を聴いているだろうか?人の心の訴えに気づいているだろうか?
仲間の声を大切にしているだろうか?

方針に合わないからと、当たり前のように恩師を切り捨てていく大人たちのやり方に傷ついているのは他ならぬ子供たちではないのか?

礼を尊ぶこと、感謝の念をあらわすことを教えられない子供たちは不幸だ。彼らは周りに同じようにするだろう。「崇高な」目的のためには切り捨ててもいいものがある、と大人たちが身を持って教えている。

こんな合唱団に子供の教育の一端を任せることはできない。
心を育てる音楽はどうなったの?

哀しい。

2009年3月31日火曜日

フォーラム21少年少女合唱団第16回定期演奏会

客席で聴けなかったので欲求不満気味。しかし評判は概ねよろしかったので安心した。
お客さんも思ったよりたくさん入っていて、ほっとする。

子供たちの一所懸命な姿を見るのは何より楽しく、、また心が浄化されるような心地がする。
ハイドンのヴェスペレは限りなく優しく、美しく、この世のものとは思えない至福の世界へ誘ってくれる。オルガンの響のあたたかさ、アンサンブルの若々しく瑞々しい流れ。子供たちはなんて幸せなの。
そして、そんな子供たちを支えることのできる私たち親も、幸せ。

この世の全ての美しきものに感謝します。

2009年3月24日火曜日

宝石箱

母の宝石箱があちらこちらの棚の奥から見つかる。てんでばらばら、脈絡のない仕舞い方。

Kがいたずらするから、触られないように隠しているの。と仰ったのは一ヶ月前。

あれから眼鏡をなくして困っていらしたので、あちこち探していたら、やはり宝石箱があちこちにまだ仕舞ってあった。こんなことをしていると、いざ使いたいときに何処へ行ったかわかんなくなっちゃうのに・・・と中を見て、唖然とする。中身がない。どれもこれも、からっぽ。

きっと不安になって、他の場所に中身だけ移されたのだろう。
でも、もう何も言えない。きっとご自分で移したことをさっぱり忘れていて、どこにあるの?なんて聞こうものなら、またKが隠してしまった、と嘆き、苦しまれるだろうから。

そっとしておこう。

2009年3月23日月曜日

「懺悔」 テンギス・アブラゼ監督作品

新聞紙上で公開を知って、是非観たかった映画。今月はフォーラム21の定期演奏会準備や小学校PTAの用事で時間がないのだが、今見逃したら永遠に観られないかも!と自分を叱咤激励して名古屋シネマテークまで走った。

グルジア映画は幻想的な表現が得意,らしいが、昔見た「スタフ王の野蛮な狩」の幻想性とは異なる、もっと泥くさく、枯れた葡萄の葉の香りがする。ストレートな表現を避けながら、観客に思うことを熱く伝えるためにグルジア映画が生み出した魔法なのかもしれない。しかし、テーマは明確で、よくあの時代にこの映画をつくれたものだと驚きを禁じえない。

俳優陣の魅力的なこと。少女ケテヴァンの、何事も見逃すまいと見張る大きな目。大人になったケテヴァンの意思的な眼差しとその中に宿る喪失感。ニノが材木置き場で娘を抱きながら呆然と佇む絶望の眼差し。キリストそのもののようなサンドロの静かに燃える瞳、そしてそして、最高に感動したのがアフタンディル・マハラゼ演じるヴァルラムとアベル。ヴァルラムは時代と心中する道を邁進する男の狂気を、アヴェルは内心の分裂に悩む小心な男を演じ、見事だった。最高の演技を見せてもらった感動で
今も胸が高鳴る。

一番印象に残るシーンは、やはり材木置き場かな。
好きなシーンはケテヴァンのもとにトルニケが訪れるところ。
そして、いちばん恐ろしかったのは、ヴァルラムがサンドロの家を訪問し、悪魔のようにサンドロ一家に呪いをかけるところ。

もう一度、観たい映画のリストに入れよう。

2009年3月20日金曜日

旧制山口高校寮歌 「鴻南に寄する歌」

叔父が俳句の同人誌に書いた随筆に、祖父の事が記してあり、祖父が旧制山口高校寮歌の詞を提供したとあった。そのことは以前父が自費出版した祖父作成の「偲び草」にも書いてあったのを思い出して、久しぶりに本棚から探し出すと、歌詞を見つけた。「鴻南に寄する歌」。ネットで調べたら、なんと平成に入ってから、旧制高校敷地内に歌碑が作られていた。これは、と思い、ネットから歌碑の写真と記事をプリントアウトして、東京の叔父さんに送り、実家の仏壇にも供える。父も祖父もきっと喜んでくれると思う。東京の叔父さんからもすぐ電話がきて、久しぶりに祖父の事を話し込んだ。飛び級して山高に入学したが、あまり勉強しなかったので受験に失敗し、一浪した後東大英法科に入ったこと。何でも器用にこなしてしまうので、結局人生を甘く見てしまった、という話。天才より努力家の秀才の方が大成するのかも。祖父は作家になりたかったという。歌碑の事を知ったら、どんな顔をするだろうか?もう叔父さんも80才に手が届く。5年前に亡くなった父の代わりに、元気で長生きして貰いたい。

2009年3月11日水曜日

靴がない?

「あの子が意地悪をして、靴を片方ずつ、どこかへやっちゃうの。」と訴える。下駄箱を見せてもらうと、全部左右は揃っている。「私が靴をたくさん持っているから、持ちすぎだと思って、意地悪するのよ。」だって。最近は靴を左右、間違えるようになったということか。アリセプトは毎日必ず私の目の前で飲んでいらっしゃるのに、症状は進む一方。「いろんなものがなくなるから、もう頭がおかしくなりそう。あの子を何とかしてちょうだい。」と。今の母の辛さはいかほどだろう。毎日毎日、できないことが増えていく恐怖。

2009年3月8日日曜日

緑区で食事

友人2人と話題のお店でランチ。
住宅街の一角にある普通の家のような小さなお店。カウンター席とテーブル席が3つだけ。
品数多く、工夫のある料理で美味しかった。温かい料理は器もしっかり温めてあり、心配りが感じられる。でも、安い食材を上手に使っている感じ。刺身も、新鮮だが、一切れのまあ小さいこと。
美味しかったし、おなかも膨れたから、ま、いいか。1,500円という値段でお値打ち感はある。
「よ兵」上旭1丁目。

2009年3月6日金曜日

鍵はなぜなくならないか

母のネックレス、ブローチ、指輪など様々な宝飾品が押入れだの戸棚だの、いろんなところから出てくる。思うに、母が大切だと思ったものは失くすのが怖いのであちこちに隠してしまうのだろう。しかし、隠した場所は半日も覚えていられないから、盗られたとか隠されたと被害妄想に陥る。カバンに紐で結んだ財布はすぐにほどいてどこかへ隠して、あげく見つからなくなってしまうが、なぜか玄関の鍵はなくならずにカバンに結んだままである。母はカバンに鍵が入っていることが覚えられないから、隠さない、それで、なくならない、というわけだ。どちらにしろ、母が鍵を使うことはない。

2009年3月3日火曜日

MET ランメルモールのルチア

3幕のネトレブコ、狂乱シーンはもう一度観たい、いや、聴きたい。ネトレブコだけでなく、エドガルド、エンリーコ、ライモンド役も素晴しい声を聴かせてくれた。オペラ初心者の私は、オペラというと椿姫やこうもりといった有名な演目しか知らなかったが、METライブビューイングを観るようになって、ほんとうにいろいろ、様々な作品があるのだとわかった。これからも楽しみ。
 ネトレブコさん、顔がプログラムと全然違うけど。

2009年2月24日火曜日

首から財布?

今朝、母が深刻な顔をして、私のところへいらっしゃた。なかなか言い出せない様子。促すと、財布が二つともでてこないという。布団の下に置いて寝ていたらしい。寝る時にはあったのに、朝起きたらなくなっていた、と。自分にもしそんなことが起きたら、さぞ気持ち悪いだろうと思う。母もこのことをどう理解してよいか分からず、気味悪がっている様子。今日はミニデイサービスに行く日(2回目)なので、「またあとで探しましょうね」と言って一緒に家を出る。このまま1人で家にいたら気持ちが滅入るばかりだから、ミニデイに行く日でよかった。
母のバッグに紐で結わえておいた財布も、これでまたなくなってしまったことになる。そうならないように、紐からはずさないでね、と何度も念を押したのだが、おそらくすぐに忘れてしまわれるのだろう。でも鍵はまだ紐についたままなので大丈夫のようだ。財布はこれから首にぶら下げて寝てもらったらどうかな?
玄関の鍵がまた2つ見つかった。こちらで預からせていただく。これで全部見つかったことになって、ほっと一安心。でも、一体どこにあったんだろう?あれだけ探して出てこなかったのに。

2009年2月22日日曜日

母の気持ち

お昼用にパンを買ってくるわね、と言って、母は出かけた。
買ってきたのは菓子パンばかり。
私たちはいつも惣菜パンと食パンまたはバケット、そして菓子パンは殆ど食事用には買わない。
だからつれあいが「あれ?食パンは買わなかったの?菓子パンばかりだね」と言った。別に問い詰める風ではなかったのだが、母には気になったらしい。食事の後、こんどは鬼饅頭を5つ買ってきた。「パンが足りないとおもったから」と。
話している内容は取り違えているが、自分の息子が不満を持ったようだという事は気づいていて、そのために鬼饅頭を買ってきたのだろう。頓珍漢ではあるが、こちらが喜んでいるか、戸惑っているかは敏感に察知される。どうせ何もわからないと、ばかにしたりそっけなくしたり、は禁物だと思う。何事も、母がしてくれたことはたっぷり喜んで見せる。詰問調はだめ。やさしい口調で、失敗したことを悟らせないように。私たちも、修行だ。

演歌 コンサート

2月21日
全国縦断 にっぽん演歌の夢祭り 2009 名古屋公演

母の入っている簡易保険でもらった券。母の付き添い。
笠寺駅で帰りの切符を買っている間に、母がいなくなる。あわててガイシホールへ走るが、見つからない。チケットは私が持っている。どうしよう、青くなって走り回っていたら、いたー!!! 
ホール外のトイレに並んで、不安そうに見回していた。
よかった。これから、人ごみに出るときは気をつけないと。
今回は特に右を見ても左を見てもお年寄りばかり。よくあの人ごみで見つけることができた。
神様、ありがとう。

コンサートはジェロと金沢明子が聴けて満足。というか、それ以外はみな同じ曲に聞こえてしまうの、私。民謡は演歌と違って、私には面白い。日本人の血が騒ぐという感じ。独特のリズムに心が躍りだす。これこれ、これが私の呼吸ににぴったり合っているのよ。生で聴けてよかった。お母さんに感謝。

2009年2月19日木曜日

紐付き鍵&財布

鍵がないと母は外へ出かけられない。誰も家にいないのに裏口に鍵をかけないなんて、耐えられないのだという。鍵の複製をお渡しすることにする。そのかわり紐でバッグに取り付けてしまう。ついでに財布も同様にする。当分このやり方で上手くいくと期待したのだが・・・。翌日、財布はバッグから取り外されていた。どこにあるの?と聞くと、「私は知らない」。でも茶箪笥の上に置いてあるのを見つけると、「私が置いたの」。外さなければなくならないのだから、このまま,絶対に紐から取らないでくださいね、と念を押す。この方法も無理かな。

2009年2月18日水曜日

MET 「オルフェオとエウリディーチェ」

主役のオルフェオ役をメゾの女性が演じると初めて知った。
太目の体格のいいお姉さんが男装で舞台に現れる。なんだか見た目がなー、と思っていたが、亡き妻を嘆く第一声「エウリディーチェ~」の歌声を聴いて、背筋がゾクゾクした。この一声でステファニー・ブライスの名前は忘れられないものとなった。なんて哀切に満ちた、詩的な歌声!

コーラスも重厚でゴージャス。背景に3層の壁をつくり、コーラスの人たちに歴史的衣装を着せて配置し、舞台装置にしてしまうなんて、憎い演出。バレエも楽しめたので時間は短めだけど満足でした。

中島みゆき 夜会

2月12日(木)

近鉄特急で大阪へ。ブラヴァで中島みゆきさんの「夜会」。
今年は「山椒大夫」を題材にした輪廻転生もの。題は「今晩屋」。
私はみゆきさんのコンサートのほうが数倍好き。彼女は歌姫であって、決して演技者ではない、と思う。
40代から50代の男性が多いのに驚く。特に今年は多いように感じた。斜め前の男性は、終盤涙ぐんでいた。信じられない。

非日常を体験しに大阪まで行くというのも楽しい。半分付き合いだけど。

2009年2月8日日曜日

ケルン国立音楽大学の中間たち

森朝さん、森愛喜さん、宇根京子さん、ゲオルギ・シャシコフさんのコンサート。

多治見文化会館小ホールにて。つれあいと。Kさんが車で連れて行ってくださる。

若い音楽家たちだけのコンサートって、とても素敵だ。今のありったけの力を不器用にぶつけてくるのがとても頼もしく、生命力にあふれていて、こちらまで若い力をおすそ分けして貰えるような気持ちになる。森姉妹は年々、力強さと安定感が増しているように思う。これからもどんどん伸びていってほしい。

曲の途中なのに拍手しかけた人たちがいて、静かに!とどなたかが嗜めていらした。日本人って、なんでも拍手すればいいと思っているのか。拍手にはタイミングが必要だということをもっと学んでほしいものだ。せっかくのコンサートが興ざめになってしまう。

コンサート前に井澤で蕎麦をいただき、その後町を散策。骨董品屋、ギャラリーなどおもしろいところをまわる。焼酎グラス2つ、記念に購入した。

2009年2月1日日曜日

MET つばめ

 午前中の予定が中止になったので、連れ合いとメトロポリタンオペラの「つばめ」を観にいく。

ジャコモ・プッチーニ作曲。こちらも「タイス」同様シンプルなお話。こういうのは歌い手の力量がはっきりみえてしまって、負担の大きな作品だろうと思う。

マグダ役のアンジェラ・ゲオルギューは風邪を押しての出演のせいか、前半、歌う前後に頻りに口をもぐもぐさせる様子が気になった。声の響に伸びやかさが欠けていて、むしろ小間使い役のリゼット、ランバルド役のサミュエル・レイミーの美声に聞き惚れた。しかし、後半は波に乗ってきて、素晴しい美声を聴かせてくれたから、よしとしよう。  

幕間のインタビュアーは前に見た「タイス」のルネ・フレミング。サービス精神旺盛。

2009年1月31日土曜日

毎日かあさん 西原理恵子

 「毎日かあさん カニ母編」を読んでいたら子供を授かったその日の事が思い出されてきた。

 Aの時もIのときも一宮市民病院で産んだのだが、出産の後の風景はどちらも鮮明に覚えている。

 深夜に出産して、体はボロボロに疲労して雑巾みたいにふにゃふにゃなのに、心はキーンと雪山のてっぺんの空気のように静かで冴え渡っていた。ものすごい緊張と弛緩の狭間で精神が尋常でない場所に登っているんだ、とわかっていた。その心で病院の広い窓から夜明け前の青黒い空を見上げていた。まだ明るくなる前の、仄かに空気が変わってきたとしかわからないくらい大気の色が変化して、空を鳥が横切るのがみえる。雲が少しずつ形をなしてくる。刻々と変化する空の色を眺めながら、子供をこの世に産み落とすとは、どういうことだろう、と考え続けていた。それは確かに私も自然の1部であることを否応なく実感させる行いだった。医者や助産婦さんに助けてもらいはしたが、私は私の力で子供を産み落とした。うんこみたいに、自然に、あたりまえに。

 出産の後に訪れた精神状態をもう一度経験できるなら、私は何度でも子供を産みたいと思う。
自然の大きなうねりの中で、流れに全てを任せながら、たった一匹の命が、己の持つ自然の力で、もう一匹のさらにちっぽけな命を分化させ、己の未知なる力と大地のエネルギーを体で感じ尽くしたあの時間。

聖なるかな。

家の玄関の鍵を母が外に落としてきたので、怖くて鍵穴から全て取り替えたのが半年前。新しい錠前は複製のきかぬ最新式、ということで予備も入れて5つも鍵を受け取ったのだがそれも半年で全てなくなった。裏口の鍵も2つあったのがなくなって、ようやく先日1つ見つけたので、さすがに鍵なしでは不便だろうと思い、複製を作ったのが昨日のこと。今朝それを母に渡す。夜渡すと、夜のうちにしまい場所を忘れてしまい、またKが盗ったことになってしまうから。それなのに昼過ぎ、どこにしまったかわからなくなった、と仰る。もう一つ、作ってきて、と。鍵1個複製代525円だけど、このハイペースでは・・・。
鍵代を払おうとするので、お預かりしているお母さんのお金から出させていただくから、いいですよ、と言うと「(私のお金なのに勝手に使えて)いいわね」だって。誰のためにこんな面倒くさいことをしているのよ!お預かりしていても、私のお金じゃないんだからね!と心の底で言い返したが、母の気持ちになってみれば、自分の物を自分で管理できない無念と不信はさぞ悔しいものだろうと思い、心を鎮める。顔ではニコニコして、何を言われても笑顔でいることにしているが、その分心の中で毒づいたり言い返したりすることが増えてきた。性格悪くなりそう。

2009年1月28日水曜日

だれも守ってくれない 

君塚良一という名を初めて知った。後で調べたら「踊る大捜査線」の監督だった。あのすべりの滑らかさ、心地よい台詞の流れ、日本映画っぽくない場面展開がなるほど、あの同じ監督か、と思った。日本映画って間延びした感じのが多いじゃない。それがない。常に適度な緊張感があって、時間あわせを感じさせない。エンターテインメントなのに、確かな社会的視点を持っている。

S事件を思い出した。犯行当時未成年だった少年をいつまでも追い続けるマスコミ、家族の消息まで知りたがる私たち。

自分だけはなるはずがないとだれもが思っている立場に思いをやる、視点の確かさ。
最優秀脚本賞を受けるのも頷ける。

2009年1月23日金曜日

どうしたらよいのか?

母は家族の中で尊敬され、愛され、太陽のような存在だった。アルツハイマーの症状が進む前は。今、母は物がなくなることに戸惑い、家族を疑い、毎日少しづつ進む症状に脅えて暮らしている。物がなくなると「恐ろしい世の中になったわね」と静かにつぶやく。「どうしてこんなに色々なことが出来なくなってしまったのかしら、老いると言うことは、こういうことなのね。」とつぶやく。何より大切にしていた家族を疑い、自分の老いがあまりに急速に進むことをなすすべもなく見つめている。自分の脳が変調をきたしていることは、気づいているが、その理由は知らない。私たちも医者も、何も言わないから。

つれあいに、あなたなら、アルツハイマーと診断されたら黙っていて欲しい?教えて欲しい?と聞くと、それは教えて欲しいよ、と即答した。私もそう思う。残された時間を知り、出来ることをしておきたいと思うから。しかし、そんな私たちが、母には何も言えない。物がなくなるのは病気のせいで、家族がばかにしたり意地悪しているわけじゃないのよ、と教えてあげたい。今も、以前と同じように母のことを大切に思っているし、愛しているのよ、と言ってあげたい。しかし、進行の早い不治の病だと知ってしまったら、母は生きる意欲を無くしてしまわないだろうか?人から大切に思われ、その教養と人柄で一目置かれてきた人が、あまりの自分の置かれた残酷な運命に絶望してしまわないだろうか?

伝えることで母が私たち家族への信頼を取りもどし、残された日々をよりよく生きようという気持ちになってくれると判っているなら、ためらいなく告知するが、そんな保障はどこにもない。このまま家族への恨みと絶望をかかえたまま母の病気が進むのを見守るしかないのだろうか?

今日のお母さん

昨日、一時間30分かかって、財布3つ、めがね、玄関のカギ3つ、手帳、印かん1つを探し出した。
玄関のカギを全て無くしてしまい、困っていたので腰をすえて頑張った成果。カギはコピーのできない機種なので、これを無くされたら大変、というわけで、2つは母に内緒で私が預かることに。
詩吟から帰った母にそれらのあり場所を見せて、確認してもらい、場所をもう移さないようにお願いするが、母は自分がそこに置いたのではない、Aがやったことだ、と譲らない。
今朝、仕事に行く前に母がいらして、カギがない、と仰有る。あわてて昨日見つけた場所を探すが、影も形もない。私は動かしていない。Aがまたやったにちがいない、と。仕方がないので、玄関からの出入りは出来ないことにする。昨夜、私がいろいろ探し出してお渡ししたことをもう忘れていらっしゃる。
夕方、仕事から帰った私のもとにいらして、印鑑を出してくれ、と仰有る。Kさん(私)が印鑑を持って、すっと出ていくのを見たのだそうだ。あなたのカバンの中にあるはずだから、返して、と。昨日色々探した時、印鑑2本が引き出しに入れてあったのを確認していたので、そこを開いて見せると、さっき見たときにはなかったから、おかしい。と譲らない。kの次は私を疑うようになったのか、ショック。早くこの状況に慣れなくては。

2009年1月20日火曜日

認知症

 母がKの部屋に入り、寝ているKを起こして、財布やお金を盗るな、こんなことが続いたら家族でも警察に通報するよ、と言ったそうだ。Kはねぼけまなこで黙って聞いていたらしい。

母は後で私のところへ来て、Kが盗んだこと、財布ごと盗られたので困っていることを訴える。とりあえず今日は教会へいく用事があるだけと言うので1,000円と小銭を渡して、財布とバッグに入れるまで見届けようと母の部屋までついていく。そうしないと出かける前に、きっと無くしてしまうから。

最近は、前の日に渡した物が必ず次の日にはなくなっている。きっととんでもないところに隠しているのだろう。それにしても財布が6つ。一体どこにあるのか?お金の入れ物が無くては困るので台所を探してみたが、見当たらない。そうしているうちに「Kをこのまま野放しにしてはいけない」とか、「お金はいくらあっても欲しくなるものだから、Kもそうなのだろう」とか言い始めて、それに合図地を打たず黙って財布を探す私に、怒りをぶつけ始める。机の上の物を両手でブルドーザーのように落とし、どうしてだれも私のことを信じてくれないの!!と体をつっぷして泣き始めた。Kが盗ったのです、ごめんなさいと言ったとしても、財布やお金は出てこないのだから、母の悩みは消えない。結局私たちがKを甘やかして思うままにやらせているのでKは財布やお金を返さないのだと思ってしまう。Kではないですよ、お母さんの孫にそんなことをする子はいませんよ。というと、私の言うことを信じないと言って怒る。話をそらしてごまかすしかないのだが、毎日お金は無くなるので、毎日Kに対する怒りは再生産される。

これ以上事態が進んで母が自殺しないか、Kに危害を加えないか、心配になってくる。

お昼ご飯の時、ご機嫌がなおっていたので少し安心したが、母の苦しみを思うと、切ない。

I診療センターへ行く日

 I診療センターのM先生に会って、母への対処法を聞こうと心に決めていた。1か月に一度の待ちに待った診察日。しかし、先生は母と私と別々に話をするのがご不快だったようで、「今まで一緒だったでしょ?どうして今日は別なのですか?」とお聞きになる。自分でしまいこんで見つからない財布やお金をすべて孫が盗んだと思いこんでしまい、困っているなんてことを、母の前で相談できるはずがないではないか。先生の結論は、対処法なし。何ともなりません、と。面倒臭そうに仰有る。話をする価値もないことか?こういう相談は医者にするな、ということか?挙げ句の果てに1年前の前任の先生による診察を批判し始めた。もう何度この批判を聞くことだろう。そんなことを教えてもらうために病院へ行くのではない。更にアルツハイマーでなく精神病かもしれないとまでおっしゃる。病名が聞きたいのではない。患者の区分を知りたいのではない。今、母にどう対処すれば母の心が穏やかになるか、知りたくて行っているのに。M先生はご自分の仕事を患者の健康管理と薬を出すことだけと決めていらっしゃるようだ。認知症の権威らしいが、尊敬出来る先生ではなさそうだ。残念。
 最後に、次回の診察は一ヶ月後でなく、一ヶ月半後でもいいですよ、だって。

2009年1月18日日曜日

Iとプール

 Iと温水プールへ。先週Mに背泳を教えて、すぐに50メートル泳げるようになり驚いたが、今日は一気に150メートル、クロールとバックで泳ぎきった。やるじゃない。
私は500メートル。若いときよりも泳ぎで疲れないのはなぜだろう?マフェトン理論に基づいたマラソントレーニングをしてきたから?心臓が強くなると体も疲れにくくなるのかしら。

 午後、母と一緒に名鉄デパートへ行って、母の友の会のカードをもらいに行く。友の会に入っていたことは一切覚えていない様子。ダウンコートと化粧品を買って帰る。

2009年1月15日木曜日

MET  マスネ〈タイス〉

母の記憶が翌日まで持たなくなった。以前は1週間は覚えていたが、今は昨日渡したお金が翌朝にはゆくえ不明に。その度に母は孫である私の息子を責める。母の求めるままに謝ったとしても、肝心の財布やお金は出てこない。孫が自分だけをばかにしている、といって嘆き、怒り、道を外してしまった孫の将来を真剣に憂えている。どうしたら母に心安らかに過ごしてもらえるだろうか?

私も疲れがたまっている。そんなに無理して仕事をしているわけではないから、精神的な疲れだと思う。いつも怠くて眠い。今日は以前からの楽しみ、メトロポリタンオペラの映画「タイス」マスネ曲を見に行く日。朝、疲れているので迷ったが、行って良かった。心も体もリフレッシュした。

あらすじはとてもわかりやすい。「魔笛」や「こうもり」のような入り組んだ人間関係はなく、登場人物は少ない。とてもシンプル。だから、主人公たちの歌の力ー表現力と精神性に余計意識は集中する。大変な力量の歌手だ。ルネ・フレミング。自由奔放で投げ遣りな悪女が一夜で心を変え、純粋な聖女と変化する様を歌で見事に表現してみせる。どちらの歌声も魅力的。これこそ神の声“ディーバ”!
 しかし、ストーリーはつっこみどころ満載。タイスを改心させようと決意する神父のアタナエルに対して、憎しみは愛情の裏返しよ!とか、ほっとけないというのは好きになっちゃったのね!などとついヤジりたくなる。愛の反対は憎しみではない、無関心だとはよくいったもの。アタナエルの屈折した愛は、俗世の男や金からタイスを引きはなし、神の花嫁として捧げることに情熱を傾けさせる、しかしアタナエルの望みどおり修道院に入ったタイスは、もはやアタナエルのものではない。この矛盾、哀しみ、滑稽。タイスを改心させるうちに愛してしまったのではない。タイスの存在を知った瞬間から、アタナエルはタイスに道ならぬ恋をしたのだ。実際、修道院へ送り込んでから、焦がれて彼が見る妄想のなかのタイスの姿は、純粋な彼女ではなく、遊女の時の衣装を纏ったタイスではないか。タイスがニシアスから贈られた像をを大切にしていることを知り、キリストの大儀のもと捨てさせようとしたのも、元彼に嫉妬する男のあからさまな感情表出に見えて、思わず笑ってしまった。だからといって、私はアタナエルがキライなのではない。矛盾と弱さと強い愛をもつ、とても魅力的な人間像だ。信者はこの映画を観てキリスト教への皮肉を感じないのだろうか?
 ニシアスの魅力も一言。金満家の人の良いお坊ちゃま。タイスには伝わらなかったが、彼は彼のやり方でタイスを愛しぬいた。去りゆくタイスをひきとめながらも、決意が固いと知ると、送り出してやる。アタナエルの遇し方もお性格のよい坊ちゃま君ぽくて、微笑ましい。
 この劇に悪人は誰一人出てこない。みなそれぞれに魅力をふりまいて、楽しめた。3時間21分、飽きを感じる暇もない至福の時間の流れ。3500円、決して高くアリマセン。

2009年1月4日日曜日

後悔

昨日、デパートのカードが出てきた。なくしていた財布ががどこからか出てきて、その中に入っていたのだ。私が、「ここにあるということは、Kが盗ったのではなかったようですね」と言っても、納得しない様子で、「このカードはあなたが作ってくれて、ここに入れてくれたのではないの?」と。Kが持って行ったということを相変わらず主張する。ここまでこわれてしまったのか、とがく然。

今日は朝からお出かけなので、申し訳ないけど部屋の中を探させてもらうと、Kが盗ったことにされていた黄色い財布が出てきた。母が夕方帰宅してから、一緒に財布を探しましょうと持ちかけて、母を財布の隠れていた茶箪笥に導く。「あ、こんなところにあった」と母が財布を手に取る。中を確認してもらい、お金がなくなっていないことがわかり、ほっとした表情になる。その10分後に、連れ合いがもう一つの財布も見つけた。私は思わず「ここにあって、中身もきちんと入っているということは、どちらの財布もKが盗ったのではないということですね」と言ってしまう。母は「ここにあると言うことは、そういうことね」と言う。悪びれない様子に、私は思わず「とりあえず、出てきてよかったですね。Kのせいじゃないことがわかって、安心しました。」と言ってしまった。

Kのせいじゃないということは、母の物忘れのせいだということで、もちろんそれは事実だけど母が一番認めたくないことであることは確かだ。それから数時間、母の表情は暗かった。

言わなくてもいいことを言ってしまった。
病気のせいなのだから、母が一番つらいのだから、これからは何を言われても否定せず、認めよう。
ばかな私。

2009年1月3日土曜日

お節料理

今年は田作り、酢あえ、数の子、筑前煮、黒豆を作る。黒豆は8時間たっぷり炊いたら、とても上手にできて満足。いつも酸味がきつすぎる酢あえも、ちょうどよいお味付け。田作りはぽきっと口の中で折れる感触がなかなかの出来。筑前煮は少し薄味だけど、お酒のあてにはちょうどよい。というわけで、今年のお節は90点というところか。

黒豆はいつも母が作っていた。今年はどうするのかな?と思っていたら黒豆を買ってきたので、まだまだ意欲があるんだとほっとしていたら、年の瀬もおしせまってから「煮る?」と言って持っていらした。炊き方を忘れてしまわれたのか。

モチも届いた当日に母が切ってしまったので、形がくずれてくっついてしまうし、31日に「早いほうがいいでしょ」とMにお年玉を渡そうとする。時間の観念が崩れてきた?教会へ行くときはスーツの上着の上にもう一枚スーツの上着を羽織っていて驚いた。いっしょに水泳に行っているSさんによると、水着の下に下着をはいたままプールに入ろうとしたり、また、水着が前後ろ逆でかなりおかしな姿をしていたとのこと。
今までは、「ちょっと変かな?」ですんでいたのが、「かなりおかしい」になってきたようだ。私も目が離せなくなってきた。