2009年1月15日木曜日

MET  マスネ〈タイス〉

母の記憶が翌日まで持たなくなった。以前は1週間は覚えていたが、今は昨日渡したお金が翌朝にはゆくえ不明に。その度に母は孫である私の息子を責める。母の求めるままに謝ったとしても、肝心の財布やお金は出てこない。孫が自分だけをばかにしている、といって嘆き、怒り、道を外してしまった孫の将来を真剣に憂えている。どうしたら母に心安らかに過ごしてもらえるだろうか?

私も疲れがたまっている。そんなに無理して仕事をしているわけではないから、精神的な疲れだと思う。いつも怠くて眠い。今日は以前からの楽しみ、メトロポリタンオペラの映画「タイス」マスネ曲を見に行く日。朝、疲れているので迷ったが、行って良かった。心も体もリフレッシュした。

あらすじはとてもわかりやすい。「魔笛」や「こうもり」のような入り組んだ人間関係はなく、登場人物は少ない。とてもシンプル。だから、主人公たちの歌の力ー表現力と精神性に余計意識は集中する。大変な力量の歌手だ。ルネ・フレミング。自由奔放で投げ遣りな悪女が一夜で心を変え、純粋な聖女と変化する様を歌で見事に表現してみせる。どちらの歌声も魅力的。これこそ神の声“ディーバ”!
 しかし、ストーリーはつっこみどころ満載。タイスを改心させようと決意する神父のアタナエルに対して、憎しみは愛情の裏返しよ!とか、ほっとけないというのは好きになっちゃったのね!などとついヤジりたくなる。愛の反対は憎しみではない、無関心だとはよくいったもの。アタナエルの屈折した愛は、俗世の男や金からタイスを引きはなし、神の花嫁として捧げることに情熱を傾けさせる、しかしアタナエルの望みどおり修道院に入ったタイスは、もはやアタナエルのものではない。この矛盾、哀しみ、滑稽。タイスを改心させるうちに愛してしまったのではない。タイスの存在を知った瞬間から、アタナエルはタイスに道ならぬ恋をしたのだ。実際、修道院へ送り込んでから、焦がれて彼が見る妄想のなかのタイスの姿は、純粋な彼女ではなく、遊女の時の衣装を纏ったタイスではないか。タイスがニシアスから贈られた像をを大切にしていることを知り、キリストの大儀のもと捨てさせようとしたのも、元彼に嫉妬する男のあからさまな感情表出に見えて、思わず笑ってしまった。だからといって、私はアタナエルがキライなのではない。矛盾と弱さと強い愛をもつ、とても魅力的な人間像だ。信者はこの映画を観てキリスト教への皮肉を感じないのだろうか?
 ニシアスの魅力も一言。金満家の人の良いお坊ちゃま。タイスには伝わらなかったが、彼は彼のやり方でタイスを愛しぬいた。去りゆくタイスをひきとめながらも、決意が固いと知ると、送り出してやる。アタナエルの遇し方もお性格のよい坊ちゃま君ぽくて、微笑ましい。
 この劇に悪人は誰一人出てこない。みなそれぞれに魅力をふりまいて、楽しめた。3時間21分、飽きを感じる暇もない至福の時間の流れ。3500円、決して高くアリマセン。

0 件のコメント: